223話 全てを賭けた賽
アストライア聖国の出現により、魔王軍と人間軍の戦争はさらに激しさを増すかに思えた。故に、前線の町に暮らす人々はその宗教国家の誕生に頭を抱え、安全な後方に居る者達は歓喜の声を上げた。
しかし意外にも、世界を取り巻く情勢が変動したのは、アストライア聖国の建国が宣言されてから、十日後の話だった。
――魔王領最前線。城塞都市ファント。
テミスの手により強化されたその都市を、一人の男が訪ねようとしていた。
「これが……ファント……なのか?」
男は、厳重な警戒態勢が敷かれている中で尚、活気を失わない街並みを眺めてひとりごちる。
確かに、風の噂には聞いていた。このファントという町は、魔王領の最前線にありながらも度重なる人間達の襲撃を退け、まるで楽園の様に平和な町が築かれている……と。
「っ……」
ぎしりっ……。と。男の歯が食いしばられ、その手が知らずのうちに拳を握る。
今男の胸に揺らいでいるのは感動でも憧憬でも無く、ただ純粋な嫉妬だけだった。
――何故俺達だけが……。
この感情がただひたすらに理不尽である事など、男は承知している。けれど、男は自らの置かれた状況を鑑みると、湧き溢れるその感情を押さえつける事はできなかった。
「……ここか」
厳重に敷かれた警備を潜り抜け、男は目的の場所を見つけて嘆息する。
その視線の先にそびえ立っていたのは軍団駐屯所。小奇麗に整えられた広い中庭を要するその建物群が、今の男にはまるで悪魔の城のように禍々しいオーラを纏っているかのように思えた。
「っ……リグレットッ……ソーニャッ……」
男は固く目を瞑ると、愛しき妻と娘を脳裏に思い描き、今にも萎え震え、逃げ出そうとする自らの足に勇気を送り込んだ。
「そうだっ……ここで俺が逃げたらッ……」
言葉と共に、男はその瞳にギラギラとした決死の決意を宿らせ、その敷地の中へと足を踏み入れる。
――その瞬間。
「オイ。ここは我ら魔王軍第十三軍団の詰め所だ。軍の敷地であるが故、旅人が興味本位で入ってよい場所では無いぞ?」
尊大な言葉と共に、男の正面から、煌めく銀髪をなびかせながら、漆黒の軍服を纏った少女が歩み出てくる。
「っぁ……」
その姿を視界に捕らえた途端、男の喉は震え出し、勝手に無意味な音を漏らし始める。
それは、感涙と絶望。無事に自らの使命が果たせたことに対する安堵と、自らの人生が終わりを告げた事に対する諦観の表れだった。
「……もう一度問おう。我等に何用か? 魔族の旅人よ」
銀髪の死神が男へと歩み寄り、その美しい唇で鋭く問いかける。
「ぅ……あっ……ぁぁっ……」
その気迫を真正面から受けた男の足はガクガクと震えはじめ、その瞳には涙が溜まり始める。
許されるのならば、逃げ出したい。
許されるのならば、この無防備な『敵将』を討ち取り、その首を持ち帰りたい。
だが、そのどちらも叶わない事を、男は本能的に察していた。
圧倒的強者を前にした弱者の悟り。自らの生殺与奪の全てを、目の前の少女に握られている事を自覚した男は、覚悟を決めて叫びを上げる。
「つ……通告ッ! 女神の騎士サージルの名の元に……今この瞬間を以て、我等アストライア聖国は、魔王領・ファントに対して宣戦を布告するッッ!!!」
「なっ……!!!」
刹那。男の正面で不敵な笑みを浮かべていたテミスの顔が驚愕へと変わり、須臾の間を置いてその姿が掻き消える。
「っ――!? ガハッ……!!」
次の瞬間。男が認識したのは、背を打ち付ける強烈な衝撃と、その視界に映る透き通るような青空……そして、中空を舞い踊る、長く美しい銀髪だった。
「貴様……今の言葉は本当か? 冗談や酔狂で済まされる台詞では無いぞ」
「ゴホッ……あぁ……本当さ。俺は命令通り、確かにアンタへ伝えたぜ……」
少しばかりは、喜べるかと思ったんだけどな……。
男は内心で独り言ちながら、皮肉気な笑みを浮かべてテミスへと語り掛ける。完全に使命を成し遂げた達成感など微塵も無い、今この胸に去来するのはただ受け入れる事しかできない無限の虚無感だけだ。
「だからよ……戦場でヤツに会う事があれば伝えてくれや……」
ギリギリと自らの胸を締めあげるテミスの怪力を感じながら、男は言葉を紡ぎ続ける。
俺の命に意味など無い。
宣戦布告の使者なんて、こうして嬲り殺されるためにあるような物だ。
だからこそ、あのクソ領主は、労仕奴隷である俺に、この役を任命した。決してその役目から逃げ出さないように、愛しい妻と娘の命を人質に取って……。
ならばせめて。
意味が無い也にもこの命。俺達を救わなかった目の前の女に刻み込んで散り果ててくれるッッ!
「貴方の送った労仕奴隷は、忠実にその役を果たしました……ってな」
――済まない。リグレット……ソーニャ……。
言葉を紡ぎ終えた男は目を瞑ると、来たるべき一撃に備えて覚悟を決める。
俺はもう傍に居てやれないが、お前達ならきっと乗り越えていける。この、俺の悪あがきが意味を成せば、少しばかりは慈悲を貰えるかもしれない……。
だが、いつまで経っても男の体を痛みが駆け抜ける事は無く、いつしか自らの胸を締めあげていた圧力も消え失せていた。
「何……」
「貴様。名は?」
再び目を開いた男の視界に、風になびいて舞い踊る銀髪が翻る。
男は、その美しい光景に目を奪われながら、問われた言葉に答えを返した。
「クルト」
「そうか」
短く言葉が交わされ、地面に叩き伏せられていたクルトの身体が、テミスの手によって引き上げられる。
「一つ。お前に選択肢をやろう」
放心したかのようにその目を見つめるクルトに、テミスは不敵な笑みを浮かべて問いかけた。
「私を信じて虜囚となるか、奴を信じて死ぬか……選ばせてやる」
「っあ……」
その問いを聞いた途端、クルトの目から大粒の涙が溢れ出し、その頬を滝の様に止めど無く滴る。
歓喜の涙を流しながら、クルトは胸の中で感謝を叫んでいた。
一見すれば、理不尽しかない選択肢だ。捕虜となればアストライアに戻る事は叶わない。それは、僅かに残っていた生還の可能性を完全に潰えさせる選択肢。一方で出された選択肢もまた同じ。
だがこの問いには、クルトを含めた一家全員が、再び笑い合える希望を秘めていた。
「ア……ンタを……アンタを信じるッ!! だからどうか……俺を捕虜にしてくれッッ!」
「フン……賽は投げられた。私に張った以上、後悔はさせんよ」
クルトの涙に湿った声が中庭へ響き渡ると、不敵な笑みを浮かべたテミスはその腕を捕らえて言い放ったのだった。
2020/11/23 誤字修正しました




