220話 這い寄る予感
「フム……」
戦後の処理が終わってから数日後。
テミスは執務室の机に腰を掛け、難しい表情で唸り声を上げていた。
「テミス様。いかがなされたのですか?」
その横から、マグヌスが湯気の立つコーヒーカップを差し出して問いかける。はじめの頃はあんなに手間取っていたというのに、今やその所作は一流の執事と言っても過言では無い程に洗練されていた。
「いや……な……」
テミスはマグヌスの差し出したカップを受け取ると、その中になみなみと注がれたコーヒーに口をつける。だが、テミスの味覚が受け取ったのは、いつもの冴えわたる様な苦みでは無く、まったりと優しい甘さだった。
「んっ……!?」
「随分と、お悩みになっておられるようでしたので」
「ハハ……そんなに渋い顔をしていたか?」
「ええ、それはもう。サキュドが立番を命じられた時の様でした」
「それは……相当だな……」
傍らに控えたマグヌスと言葉を交わしながら、小さく笑みを浮かべたテミスは自らの頬を揉んでコリを解す。たしかに、表情筋が妙に怠い事を鑑みるに、マグヌスの言う事も間違いでは無いのだろう。
ちなみに、以前サキュドに夜の立番を命じた時には、まるで口一杯に頬張った苦虫をまとめて噛み潰したかのような壮絶な表情をしていた。
「それで……そんなにまで何にお悩みになられていたのですか?」
「あぁ……」
短い沈黙の後、マグヌスは心配そうな顔でテミスの顔を覗き込みながら質問を重ねる。本来であれば、指揮官であるテミスに副官であるマグヌスが質問をする等という行為は言語道断なのだが、軍隊の体を成しているだけの十三軍団ではそれが赦されていた。
「妙だとは思わんか?」
「妙……ですか?」
ぽつりと零したテミスの言葉を、マグヌスがオウム返しに復唱する。
物憂げに中空を見つめるテミスの視界の端には、不思議そうに首を傾げるマグヌスの姿がしっかりと捉えられていた。
「ああ。連中……先の戦いでルギウスを嵌めようとした連中の事だ」
「はぁ……賢しい連中の事ですから、いつもの事では無いのでしょうか?」
「いや……」
マグヌスの返答をテミスはやんわりと否定すると、再び思考の海へと意識を沈めていく。
そう。小賢しい連中だからこそ、今回の『作戦』は妙なのだ。
地力で劣る連中にとって、降伏交渉は最後の一線……。自分達が命を繋ぐ事のできる、最後のセーフティネットなのだ。
だからこそ、ルギウス達は和平交渉を疑いもしなかったのだろうし、一見すれば姑息ながらも意識の隙を突いた作戦と言えなくもない。
だが……。
「大局が見えて無さ過ぎる」
テミスは、ブツブツと呟く自分を、目を丸くして見守るマグヌスを無視して、自らの思考を纏めていく。
そうだ。拭いきれない違和感はこれだ。
人間共はこれまで、まがいなりにもその数と知略を駆使して、魔族と渡り合ってきた。そんな連中が、万に一つの生命線を切ってまで、たかだか軍団長一人の首を取りに来るだろうか?
「割に合わん……そうだ。ルギウスには悪いが、たかだかアイツを討つがために賭けるにしては、掛け金が大きすぎる」
連中が差し出したのは、人間全体の命の保証だ。魔王軍が平和を求めると歌う以上、どんなに優勢にあっても、和平の話を持ちかけられれば応じさるを得ない。
故に、それは完全な敗北を回避するための最終手段であり切り札……。それを投げ捨てるような事なんて……。
「っ…………!」
ゾクリ……。と。テミスが一つの可能性を想像した瞬間、背筋を凍り付かせるような悪寒が這い回るのを感じた。
そう。私は、一つだけ知っている。
自らの身を捧げてまで敵の喉笛に食らい付き、自分の命一つで一つでも多くの敵兵を刈り取れるならと……軍人だけなく一般の民までもが無数の命を捧げた狂信的な事例を。
「まさか……あり得んッ!」
芽生え始めた恐怖を振り払うように、テミスは自らが導き出した可能性を否定する。
ロンヴァルディアの王に、かつてのあの国を修めた皇の様なカリスマ性は無い。
そもそも、一般の市民たちをも狂信的に崇拝させたメカニズムは、幼少期からの長きにわたる洗脳に等しい教育にあったはずだ。だが事実、王女であるフリーディアが神聖視されている光景など見た試しが無いし、ヒョードルはフリーディアを手中に収めんと策を弄した。
故に。ロンヴァルディアを治める王家には、狂信的に自らの身を捧げさせるほどの要因は無い筈……。
「テミス様ッ!」
「――っ!? な、なんだマグヌス!? 急に大声など出して……」
ビクリ。と。
耳元で響いたマグヌスの声にテミスは身を竦めると、無理矢理意識が現実に引き戻される。
「……ご無礼を承知で失礼いたしました。百面相をした後に、顔を青くして震えだしたものですから、何事かと」
「震えた……? 私がか?」
「はい……」
「っ……」
マグヌスの言葉に、テミスはいつの間にか握り込まれていた拳を開いてみると、そこには掌に食い込んだ爪の跡と共に、じっとりとした嫌な汗がきらめいていた。
「あまり、考え過ぎるのもよろしい事では無いかと。深慮も大切ですが、在りもしない恐怖に呑まれては本末転倒です」
「そう……だな……」
力強くそう言い切ったマグヌスに同意して、テミスは机の上に残っていたコーヒーを飲み干して一息をつく。
そうだ。きっと考え過ぎ……。なまじ歴史を知っているだけに、連中の仕掛けた奇策を深読みしすぎているだけなのだろう。
「マグヌス。すまないがお代わりを頼む」
「ハッ……直ちに」
テミスは胸の内の不安を押し殺すと、マグヌスに追加のコーヒーを求めて空になったカップを差し出したのだった。
だが、この数日後。テミスの予感は、的中することになる。




