2182話 統制無き戦線
ネルード近郊での騒乱をよそに、ロンヴァルディアが最前線と定めている水域は、驚くほど平穏そのものだった。
朝の爽やかな平穏を越え、太陽が天頂へと差し掛からんとしている頃。
歪で乱雑な前線を敷く船団の上空を、上空から一つの小さな影が見下ろしていた。
「はぁ……そろそろ、組み手の一つや二つを要求しても、叱られないのではないかしら? 久々にテミス様とご一緒できるかと思ったのに、まぁた雑用ですものね」
パタパタと羽根をはためかせながら愚痴を零したサキュドは、冷ややかな瞳を眼下の船団へと向けると、深々と溜息を吐く。
テミスから受けた密命のなかでも、優先事項として各部隊の正確な戦力の確認があった。
命令を受けたサキュドとしては、今更戦力の再確認などする必要など無いとタカを括っていたのだが、実際に作業に取り掛かってみると、その実難航を極めていた。
何故なら。
白翼騎士団へ提出された戦力と実戦力はかけ離れており、最新鋭艦を主とする戦艦五十隻の部隊を見に行ってみれば、最新鋭艦は旗艦ただ一隻のみで、他は図体ばかり大きなおんぼろ船という部隊もあった。
故に。報告された資料など何のアテにもならず、サキュドは戦線を隅から隅まで飛び回り、イチから戦力を総ざらいしなくてはならなかったのだ。
「……いっそのこと、役に立ちそうにない連中は全て沈めてやりたいくらいね」
苛立ち紛れにぼそりと呟くと、サキュドは懐から取り出した羊皮紙に実際の戦力を書き留め、怒りの籠った紅の目で旗艦と思しき船を睨み付ける。
報告によれば、この船団は戦艦十余隻からなる部隊のはずなのだが、戦艦は旗艦を含めた四隻のみで、あとは漁船のような小型船に無理やり大砲を括りつけた偽装部隊だった。
こういった連中の存在は、テミスの指示が正しかったという何よりの証左ではあったものの、実務の面では面倒極まりないという現実に変わりはなく、サキュドは苛立ちに胸を焦がしながら、夜を徹して確認作業を進めていた。
「いっそのこと、敵が攻め込んできて邪魔船を全て沈めて欲しいわね……」
戦線の構築も杜撰、戦力も張りぼての偽物。
そんな燦々たる現状を焼き払ってくれるのならば、たとえ敵であろうと大歓迎だ。
サキュドは面倒な作業から解放されるし、胡乱な愚図共は藻屑と消える。それに加えて戦いも愉しめるのだから素晴らしい。
とはいえ、総指揮を執っているフリーディアからは戦線に配された各部隊に、敵からの攻撃があるまでは、決して先制しないように厳命が発せられており、サキュドが希う動乱など夢のまた夢に思われた。
だが……。
「んんっ……?」
ふと違和感を覚えたサキュドが、眼下の船団から湖の向こうへと視線を移動する。
その方向はネルードへと続く方角で。そちらへ向けられたサキュドの視界の中では、白波を割いて疾駆してくる船が一隻、水平線の向こうから姿を現していた。
「ぁはぁっ……!!」
まさしく待望の瞬間。
サキュドは嬌声にも似た歓声を唇から零すと、喜びを発露するかの如く、空中でクルリと一回転をする。
敵の船は小型だが、速力はかなり速い。
ならば、この辺りに詰めている部隊は軒並み一掃してくれる……?
いや。そもそも、小型船がたった一隻で向かって来る事の方が異常……?
歓喜に脳を焦がしながらも、サキュドは一瞬の内に思考を展開し、あらゆる可能性を模索した。
サキュドにとってフリーディア……ひいてはロンヴァルディアの利得など、路傍の石と違わぬほど心の底からどうでも良いもので。
とはいえ、今この場でどう動けば、主であるテミスの利に繋がり、ひいては自分自身の得となるか。
その一点こそがサキュドにとっての重要事項だったのだが……。
「あらっ……? あらあらあらっ!! くふふっ……!!」
身を隠す事すらせず、一直線に向かってくる船には流石に気が付いたのか、サキュドの真下で雁首を揃えた船団たちが動き始めると、サキュドはにんまりと悪魔のような笑みを浮かべた。
よくよく見てみれば、ネルード側から疾駆してくる船には、ばたばたとはためく薄汚れた白い旗がはためいており、それは明確に戦う意思が無い事を物語っていた。
だというのに。
サキュドの足元の船団は、向かって来る小型船に対して鶴翼の形で陣を敷いたうえに、大砲まで準備しているではないか。
どうせなら、命令を違反してくれた方がありがたい。
サキュドが胸の内で、そう不穏な呟きを漏らした時だった。
――ズドンッ!! と。
船団の中の一隻が砲撃を放つと同時に、他の船も一斉に砲撃を始める。
だが、砲撃の精度はお粗末で、目標である小型船には掠りもしていないのだが……。
「あっはぁっ……!!」
どうあれ、サキュドが忌々しく思っていた船団が、重大な命令違反を犯した事に間違いはなく。
目を爛々と輝かせたサキュドは空中で身を翻すと、足元の船団へ向けて一直線に降下を始めたのだった。




