2179話 もう一つの窮地
一方その頃。
ネルード公国の外れの波止場に、小さな人だかりができていた。
だが、それ以外に人の気配はなく、辺りは不気味なほど静まり返っている。
「……準備はできましたか?」
「おや? 姐さん。此方に来てしまって良いんですかい?」
「構わないでしょう。奴等、こちらから仕掛けない限りは襲っては来ないので。まぁ……今のところは、という注釈付きですがね」
コツリ。と。
固い軍靴の足音を鳴らして姿を現したアイシュに、肩を並べて作業をしていた一同がビクリと背筋を正す。
だがただ一人、薄汚れた警備隊の制服を肩に羽織ったスイシュウは、作業の手を止めないまま、のんびりとした声で言葉を返した。
「こいつを……こうっ……っとぉ……! ふぅっ……参ったねぇ。機械弄りなんて何年もやってないってのに……。多分これで動くはずだよ!」
「おぉっ……! 流石スイシュウさんッ!! もしかしたら……って思ったけど、やっぱりすげぇやッ!」
「ははっ! 止しておくれよ。偶然さ偶然。昔ちょいとだけ弄った事のある型だったからできただけさ」
顔をあげたスイシュウが、機械油で黒く汚れた手で額の汗を拭うと、周囲に集まっていた男たちが一斉に歓声をあげる。
眼前の波止場には、様々な形をした船らしきものが繋がれているものの、その全てに保存の為か布がかぶせられていた。
「それで……あちらの状況は?」
「変わらず……ですよ。中心街区及びほとんどの港湾施設は制圧されたまま。奴等は各施設の守りを固めたまま、進行を始める気配はありません」
「やれやれ……参ったねぇ……。頭はネールちゃんが潰してくれたはずなのに……まさか急に統率を取り戻すなんてさぁ……」
「……民間人への被害が最小限で済んだだけ良しとしましょう。それもこれも、一早くから避難誘導に注力をしてくれていたあなた方のお陰です」
「止してよ。照れくさい。褒められるのは慣れていないんだ」
背を伸ばしたスイシュウはアイシュと真正面から向き合うと、気負いすら感じさせる事無く朗々と会話を始めた。
その容姿に、昼行燈で有名な彼を良く知る者達は、戦々恐々とする傍らで、底知れない人脈を持つスイシュウだからと納得もしていた。
だが、さり気なくスイシュウの腰に提げられている剣が、普段スイシュウが帯びている治安維持軍の制式装備とは別の、禍々しい気配を帯びた一対の剣に変わっている事に気が付いているのは、この場ではただ一人アイシュだけだった。
「漸く本気になったというのにそれですか」
「必要に迫られてさ。こんなもの、本当なら絶対に使うのは御免だよ」
「貴方はそれで良いのですか? 本来ならば――」
「――何度も言っただろう? 今、皆の混乱をきたすような事を言うべきじゃあない。それに、もう担がれるのは御免なんだ。だからそういうのは……勘弁してくれないかな?」
「……貴方がそう望まれるのなら」
互いに真意には触れないまま、婉曲な表現を以て言葉を交わすと、影のある微笑みを浮かべたスイシュウに、アイシュは僅かに頭を下げる。
親衛隊の者で、スイシュウの事を知らない者は居ない。
それぞれがどのような思いを抱いたのかまでは定かではないが、アイシュが抱いた第一印象は油断のならない狸親父というものだった。
事実。その直感は当たっていたようで。
のらりくらりと何もできない無能を装いながら、彼はこの町に深い根を下ろし、こうして未曽有の事態を前に最善手を打ち続けている。
「敵は未知数。ですが、港湾施設を抑えた以上、出撃すれば動きがあるのは間違いないでしょう。一応ですが、このまま彼女たちの再侵攻を待つ……という手もあると思いますよ?」
「それも考えたんだけどねぇ……。どうにも厭ぁな予感がするんだよ。敵さんがこのままじっと待っていてくれる……だなんて保証もない訳だからさ」
「危険な任務になります。予測される追手を振り切れたとて、あちらへ無事に辿り着けるかどうか……。更に言うのなら、彼女に逢える可能性はもっと低い」
「そこはもう……祈るしかないよね。女神様にさ。でも自身はあるんだよ? これでもボク、日頃の行いは良い方だからさ」
「……決意は変わらないようですね」
「あぁ……ありがとうね……」
「…………」
周囲で緊張した面持ちを浮かべる仲間達の前で、アイシュとスイシュウは淡々と静かに言葉を交わす。
スイシュウが礼を述べたのを最後に訪れた沈黙は非常に重く、誰もが密かに視線だけを交わして、如何に動くべきかを探り合っていた。
すると……。
「では、作戦の決行は明日、日の出前です。大事が無ければ、私も見送りには来ますよ」
「了解。張り切っていい所を見せなくちゃぁね……!」
アイシュは静かにそう告げると身を翻し、来た時と同じようにコツコツと固い足音を響かせて歩き出す。
その背に向けて、にっこりと微笑みを浮かべたスイシュウが軽口を叩くと、数歩遅れてアイシュがピタリと足を止める。
瞬間。
その場の雰囲気は恐怖に支配されたかの如く凍り付いたのだが……。
「一つ……聞き忘れていました」
「なんだい?」
「奴等が突然統率を取り戻した理由……貴方はどう考えていますか?」
「そりゃぁ……決まってる……。最悪な方さ。まず間違いなくね」
「……わかりました。覚えておきます」
振り返ることなく、何処か緊張を帯びた硬い声色で告げられた問いに、スイシュウは溜息まじりのひと際低い声で、ゆっくりと答えを返す。
そんなスイシュウに、アイシュは固い声色のまま言葉を返すと、今度こそ足を止める事無く立ち去って行ったのだった。




