2119話 潜みし者
「くぁ……ぁぁ……畜生……。やってらんねぇよなぁ……」
酷く緊張感に欠ける間延びした声が響いたのは、テミス達三人がちょうど塀の上に設えられていた鉄柵を乗り越えた時だった。
ちょうど足元から響いてきた男の声は、どうやら誰に話している訳でもないらしく、ビクリと動きを止めたテミス達の下から響き続ける。
「なぁにが罰だよ。俺は間違ってねぇっての!! だいたい、あの時アイシュの奴を通してなけりゃ、こんな騒ぎにもなって無かっただろうがよォ……」
「っ……!」
「ッ……!」
「……!!」
止めどなく続けられる男の声に、テミス達は声を発する事無く目配せを交わすと、そろりと音も無く鉄柵を乗り越え、声が響いてくる塀の下を覗き込んだ。
だがただ一人、周辺索敵を行ったテミスの胸中は穏やかではなく。
警戒を怠る訳でもなく、注意を払って確かに確認した自身の感覚すらもすり抜けるほどに、気配を殺す事に優れた猛者が居るのか……?
しかしそれほどの腕を持つ者が、こんなに間抜けな独り言を垂れ流すだろうか。
けれど、下を覗き込んで尚。テミスの胸の内に渦巻く戦慄と混乱が消え去る事は無かった。
何故なら、テミス達が覗き込んだ塀の下には、綺麗に刈り込まれた生垣こそあるものの、愚痴を垂れ流しながら巡回している兵の姿など、影も形も見当たらなかったからだ。
「ッ……!!?」
もしや、この間抜けな声自体が罠かッ!?
いち早くそう直感したテミスが、鋭い身のこなしで身構えるが、危惧した不意打ちが襲い来ることも無く、誰もいないはずの足元から響く声が止まる事も無かった。
「クッ……!!」
ならばこれは、幻影の類か?
塀によじ登った侵入者を捕らえる為に、罠が仕掛けられている可能性は十二分にある。
ならば、既に侵入は露見している可能性は高い。ここまで来て正面切っての戦いは得策ではないが、事ここに至ってしまってはやるしかないかッ!!
瞬時に思考を巡らせたテミスが、せめてもの機先を制する為に月光斬を放つべく、背負った大剣の柄へと手を伸ばした時だった。
「ッ~~~!!!」
「待って……まってッ……!!!」
傍らからシズクの声なき悲鳴と、焦り切ったユウキの囁き声がテミスの耳に届くと同時に、背中の剣へと伸ばした手が、両側から抑え込まれる。
「ッ……!? 何をッ……!?」
「わわっ……!!」
「っ……落ち着いて下さい。ゆっくりと……静かに、生垣の中を見てください」
「なに……?」
即応反撃の妨害をしたユウキ達に抗議すべく、テミスは声を上げかけるが、即座に伸びたユウキの手で口を塞がれ、声が響く事は無かった。
その代わりに、テミスに身を寄せたシズクが耳元で囁き、それに従ったテミスは足元の闇へと目を凝らす。
シズクの示した先、夜の闇に溶け込んだ生垣の中には……。
「クソ部隊長め……このゾルゲス様を何だと思ってやがるッ……!」
「なっ……!!?」
ぞんざいに四肢を投げ出して寝転んでいる一人の兵士が居て。
よもや、自陣で潜伏している兵士が居るなどとは思っても居なかったテミスは、目を見張って息を呑み、驚きの声を漏らす。
「んぁ……? んだぁ……?」
だが、流石にそれだけ騒げば足元の兵士も異変に気が付いたのか、気怠げな声色へ僅かに力が籠る。
刹那。
「ッ……!!!」
「グェッ……!!?」
忌々し気に表情を歪めたテミスは、傍らのユウキ達が止める間も無くヒラリと空中へ身を躍らせると、声が聞こえてくる生垣の中へと着地した。
テミスの足の裏に伝わったのは、固い石畳の感触でも、土を踏みしめる感覚でもなく、もっと柔らかい肉の塊でも踏みつけたかのような感触で。
同時にテミスの足の真下から、野太い声が苦し気なうめき声をあげた。
「が……ぁ……っ……? な……何……が……っ……!?」
「チッ!! 浅いかッ……!! 続けッ!!」
「ッ――!!」
「グ……ボぉッ……!!? ガハァッ……!!?」
その声で、足元の兵士の意識がまだある事を確認したテミスは、静かながらも鋭い声で塀の上へと命令を発する。
直後。返答の声も無く、飛び降りてきたシズクが生垣の中の兵士……ゾルゲスの鳩尾に着地し、一拍遅れてさらに続いたユウキが追い打ちをかけた。
「ぁ……ァ……なん……だよ……っ……」
そんなテミス達の三連撃を喰らったゾルゲスは、突如その身に襲い掛かった途方もない衝撃に混乱しながら、訳も分からず苦悶に満ちた声で問いを発すると、ぷつりと意識を失ったのだった。




