199話 地獄の焼き入れ
二日後。ファント南西部・薄森林地帯。
「ハァッ……ハァ゛ッ……く……そ……」
森林と草原の入り混じったのどかなこの地域には、今や見るに堪えない地獄が広がっていた。
列となって走り続ける魔族たちが、まるで何かに取り憑かれたかのように円を描いて走り続けている。その中心には、その長い銀髪をそよ風にそよがせながら、その唇を半月状に歪めて嗤うテミスの姿があった。
「ガハッ……ゲホッ……ふ……ざけ……」
ドサリ。と。走り続ける魔族たちの中から、一人の男が列を外れ、青々と茂る草の絨毯の上へと倒れ伏した。
「……何だ貴様。もう限界か? 一歩たりとも動けんのか?」
「ゼェ……ハァッ……ゴホッゲホッ……」
中央に佇んでいたテミスは倒れた男へ歩み寄ると、その瞳に冷酷な光を宿して問いかける。しかし、男の体は酸素を求めるあまり答えを発する事を許さず、その激しく上下する胸が、既に体力の限界を遥かに超えている事を雄弁に物語っていた。
「フム……。ならば仕方がないな」
テミスは、自らの問いに応える事すら出来ない男に背を向けると、ゆっくりと元居た位置へと踵を返す。しかし、その手は腰に提げられた片手剣へと添えられており、テミスは元居た円の中心へとたどり着いた瞬間。剣を抜き放って空高く放り投げた。
「――っ!!! ネーフィスッ! ……避けろッ!!」
「ッ――!!!!」
刹那。連なって走る魔族たちの中から、色濃い疲労を孕んだ叫び声が、草原に倒れた男……ネーフィスへ向かって投げかけられる。
その声がネーフィスの耳へと届く頃には、ネーフィスもまた、その言葉の意味を完全に理解していた。
ネーフィスの視界には、つい先ほどまで雲一つない青空が広がっていた。しかし、そこに突如煌めいた一筋の光。それはまさに、つい先ほどテミスが投げ放った剣が、回転しながら自分の元へと落下してくる姿だった。
「うっ……おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉッッ!?!?」
脳が危険を察知し、肉体へ指令を送るよりも早く。ネーフィスの体は条件反射的に自らの身を真横へと転がしていた。
視界がぐるりと周り、ネーフィスの鼻孔を土の匂いと草の香りが満たす。
直後。
ストン……。と気の抜ける程に軽い音を立てて、テミスの片手剣がつい先ほどまでちょうどネーフィスの頭があった位置に深々と突き立った。
「なっ……何をしやがッ――」
「――動けるではないか」
ネーフィスが、堪り兼ねたと言わんばかりに怒りの叫びを上げた瞬間。その怒りをも凍り付かせるほどに冷ややかな声が、暗い影と共にネーフィスの頭上から投げかけられた。
「っ……! ば、馬鹿かッ!? 動かなきゃ死んでたぞッ!」
「私は聞いたはずだ。一歩たりとも動けない程に限界か? とな。だが貴様は命の危機が迫った結果……その答えを易々と翻した」
「ふ……ふ……ふざけんなッ! 俺は魔術師なんだ! こんな肉体を鍛える基礎訓練なんて必要無いんだよッ!!」
テミスがネーフィスを冷淡に見下ろしながら言葉をかけると、ため込んだ不満を爆発させたネーフィスの掠れた叫びが、辺りに響き渡った。
「フン……」
だが。燃えるような怒りと共に吐き出されたその咆哮に、テミスは失望したかのように冷め切った視線をネーフィスへと送りながら、小さく鼻を鳴らして目を細める。
そして、次の瞬間。
テミスの体がゆらりと揺れたかと思うと、地面に寝転がるネーフィスの鳩尾に、軍靴のつま先が叩き込まれていた。
「っ――!? ゴバッ……ゴホッ……ガハッ……」
その鋭い蹴りを躱す事すら出来ず、まともに食らったネーフィスの体が、まるでサッカーボールの様に転がって動きを止める。そして、そこでようやく蹴り飛ばされた事に体が気が付いたのか、ネーフィスは遅れて襲ってきた痛みにその場をのたうち回った。
「十三軍団はお前の居た軍団とは違ってな……」
サク……サク……。と。小気味のいい音と共に下草を踏みしめながら、冷たいテミスの声がネーフィスへと近付いてくる。
「雨の様に攻撃魔法が降り注ぐ中を切り抜けたり、自らの数倍の規模を誇る部隊と戦闘をせねばならんのだ。……故に」
サクリ。と。いつの間に拾い上げたのか。痛みに呻くネーフィスの頭の真横に、小気味のいい音と共にテミスの剣が突き立てられる。そして、まるでその剣を突き刺すが如く、テミスの言葉がネーフィスへと叩き付けられた。
「魔法しか使えん奴……剣しか使えん奴では足りんのだ。幸い、貴様はある程度の魔法は修めている。ならば、あとはその虚弱な肉体を鍛え上げるだけで、強靭な肉体を持った魔術師という無欠の戦士になれると思うのだが?」
「っ……!」
無茶苦茶な理屈だ……。
倒れ伏しながらも、その言葉を聞いていたネーフィスは疲労した脳味噌の片隅で力なく呻いた。
魔術とは英知であり、肉体の限界を超えた力を引き出す事ができる。
例えば、ドロシー様がこの女との戦いで用いた身体強化術式も、たった数秒の詠唱を経るだけで、百の修練に勝る力と速力を生み出すのだ。
「ぐっ……くっ……」
だが、同時にこの術式では、強化できる限界があるのも事実。肉体を鍛える事で、その限界を破る事ができる可能性が高いのもまた事実だ。
ネーフィスは心の中でテミスを毒づきながら、震える脚を押さえつけて二本の足で立ち上がる。
「立ち上がって……どうする? はぐれ魔族へと堕ちるのならば私は止めん。自由に選ぶがいい」
パチンッ……。と。テミスは地面に突き立てた剣を抜くと、音を立てて腰の鞘へと納めた。
……何が自由だ。
滝のように頬を伝う汗を拭いながら、ネーフィスはテミスを睨み付けて心の中で吐き捨てる。
はぐれ魔族とは、魔王軍に属さず、放浪を続ける者に対する蔑称であるのと同時に、魔王軍を出奔した逃亡兵を現す呼称でもある。故に、この問いで突きつけられた二択は明白。服従か死か……それだけではないか。
「訓練を……継続しますッ……」
「そうか……ならば精進しろ。ネーフィス」
ギリギリと歯を食いしばった歯の隙間から、絞り出すようにネーフィスが問いに答えると、テミスはただ一言頷いて定位置へと戻っていったのだった。




