2113話 悪意無き醜悪
なんだ……? こいつらは……何を言っている……?
背骨を氷柱で貫かれたかのような寒気に身を凍らせながら、テミスは胸の内で言葉を零す。
確かに、理不尽に喧嘩を吹っかけてきたのはこの男たちだ。
この男たちのせいでテミス達の食事は台無しになったし、不快な思いをしたのも間違いは無い。
だが、それだけの事。
少なくともテミスの知る限りでは、この男たちは取り返しのつかない程の大罪を犯した訳ではない。
事実として、この男たちは傲慢が過ぎる事もあったのだろう。
けれどその代償は、食らった一撃と晒した恥で十分に支払ったはずだ。
だというのに……。
「ゴクッ……!!!」
テミスは身体を強張らせたまま、視線だけを周囲の見物客へ向けて、一気に干上がった喉で生唾を呑み下した。
こいつ等は、死を望んでいる。
否。楽しんですらいるッ……!!!
死に逝く愚か者たちを嘲笑い、蔑み、悦に浸る。
ただ眺めているだけの彼等にとっては、人の死すらもただ物珍しいだけの娯楽なのだ。
たったそれだけの事の為に。このテミスたちに絡んできた男たちに大した恨みも無い癖に……自ら手を下す訳でもない癖に、この連中は目の前で彼等が惨殺されるのを心待ちにしている。
「ッ……!!!!」
この連中は……駄目だ。
心を凍て付かせる怖気に従って、テミスの手は意識する事無く、外套で覆い隠した大剣の柄を求めて伸びていた。
腐っている。見るに堪えない醜悪さだ。
知ってか知らずかこの連中は、テミスへ男たちを殺せと宣っているのだ。
店の出口へ続く道を開けたのも然り、今もなお聞こえてくる焦れたような文句も然り。
見物人たちは総出で、テミスへ絡んだ男たちが殺される流れを形作っている。
そんな理不尽、悪逆そのものではないか。
自分は傷付かず、手も汚す事のない安全な場所から、零れ落ちた者が散るのを嘲り笑う。
「ぅ……ぁ……っ……!!」
標的は周囲の見物人。
放つは特大の月光斬。
もはや思考すらも凍て付いたテミスの脳裏あったのは、眼前で蠢く醜悪な害意を切り裂く事だけだった。
「っ……!! 水だッ!!!」
「…………」
「……は?」
だが、ぐつぐつと煮え滾るマグマのようなテミスの思考は、唐突に響き渡ったシズクの意味不明な怒鳴り声によって吹き飛び、代わりに裏返った頓狂な声が唇から零れ出る。
水だと? どういう意味だ? 訳が分からない。
困惑するテミスと同様に、周囲の見物人たちも各々に顔を見合わせながら首を傾げ、奇異の視線をシズクへと向け始めた。
しかしその時。
「あいよ。何に使うかは知らんが、しっかりお代は支払って貰うぞ」
いつの間にかテミス達の前から姿を消していた店主が、再び人垣の間からひょっこりと姿を現すと、木製のジョッキになみなみと継がれた冷えた水をシズクへと差し出して告げた。
そのジョッキを、シズクはコクリと頷いてから受け取った後、ガクガクと震える男を見下ろして凛とした声を張り上げる。
「連れが言いましたよね? 食事の邪魔だと。貴方がたのお陰で、私達の買った水は台無しです。さて……この始末、どう付けますか?」
「ッ……!! は、払うッ!! 払わせてくださいッ!! 俺達が悪かったッ!! 水だけじゃあねぇ!! 飯の金も払うからッ……!!」
「……こんな所ですかね?」
呆然と立ち尽くしテミスの前で、シズクは男の眼前に新しい水の注がれたジョッキを突き付けると、ゆっくりと……しかしよく通る声で問いかけた。
懇切丁寧に告げられたその問いに、男はコクコクと首が千切れんばかりに頷くと、悲鳴のような叫びをあげて財布代わりの革袋をシズクへと差し出す。
差し出された財布を見据え、シズクは小さくため息を零すと、中から数枚の銀貨をつまみ出してテミスを振り返った。
銀貨はちょうど男たちが申し出た通り、テミス達の食事代くらいの金額で。
「迷惑料だ。あと数枚は貰っておけ」
「わかりました。それでは、これで。あと……これに懲りたら、傲慢な態度を改めて精進して下さい。誰かを虐げ、暴虐の果てに待つモノが何か……身を以て知りたいというのならば別ですが」
「ッ……!! っ~~!!!」
シズクの機転によって数秒の間を得たお陰で冷静さを取り戻したテミスは、向けられた問いにクスリと微笑みを零して静かに答える。
同時に、鎌首をもたげていた右腕は音も無く静かに下がり、柔らかな光を取り戻した瞳は、コクコクと必死で頷く男に滾々と説教をするシズクに向けられていた。
だが……。
「ちぇッ……なんだよソレ。せっかく面白いモンが見れると思ったのに……ったく、つまんねぇなぁ。殺しちまえよそんな奴……」
「ッ……!!!」
見物人たちの中から確かに響いた吐き捨てるような声に、ギョロリとテミスの視線が動く。
しかし、テミスが言葉を発する前に。
「誰だッ!! 今のはッ!! 聞こえたぞ!! 出て来いッ!!」
「…………」
シズクが爆ぜるような怒気と共に見物人たちを睨み付け、鋭い叫びを発した。
けれど、見物人の中から名乗り出る者は一人も居らず、鋭い切っ先のような殺気を向けられた見物人たちが、ざわざわとざわめきはじめる。
「……酷く、不愉快です。逃げ隠ればかりして、いざ危険が迫ったら罪を擦り合う。貴方たちの方が、貴方たちが蔑んでいた彼等よりよっぽど下劣です。……行きましょう」
「フッ……」
胸を張り、見物人たちを睨み付けながら朗々と言い放つと、シズクは店主に銀貨を一枚手渡してから、パサリと外套を被り直してその身を翻した。
その姿に、テミスは溜飲が下がる思いでニヤリと微笑みを浮かべると、黄旗亭を出ていくシズクの背に続く。
そんな二人の背後では、取り残された見物人達の中から確かに、ボソボソと悪態を吐く声が零れ出たものの、二人が足を止める事は無かったのだった。




