2086話 武士の誓い
二度、三度……と。
コジロウタはシズクから手渡された巻物を隅から隅まで熟読すると、静かに深いため息を吐いた。
その溜め息には、まるで何かを悼むかのような憂いが籠っており、それを感じ取ったシズクは外套に隠れた耳をピクリと跳ねさせる。
「そうか……ヤトガミ様が身罷られたか……」
「…………。はい……」
「すまぬ。お嬢たちには辛い役目を背負わせてしまったな。本来ならば、乱心召されたあのお方を介錯するのは、拙者が担わねばならぬ役所」
「いえ。確かに辛いことも、苦しいこともありました。ですが、あの戦いがあったからこそ、私は砥がれ澄まされ、いまの私があるのです」
「っ……!! その刀……!」
低く唸るような声で口を開いたコジロウタに、最初はシズクも調子を合わせて答えていた。
だが、コジロウタが謝罪と共に頭を下げるや否や、シズクはきっぱりとした口調で言葉を返し、外套で覆い隠している腰に佩いた刀を示してみせる。
それを見たコジロウタは驚きに目を見開いて息を呑むと、呆気にとられたような表情でシズクの目を覗き込んだ。
「……そうか。強く……強くなったのだな……お嬢。確かに猫宮の家の庭先で、一心不乱に木剣を振っていたあの小さなお嬢がこんなに立派に……。流浪の旅に出て幾年……よもやそれほどまでに時が流れていたか」
そのまま深く、穏やかな呼吸を数度繰り返した後。
コジロウタは柔らかな微笑みを浮かべて噛み締めるように言葉を紡ぐと、机に置いていた配を傾けて、ちびりと安酒を煽る。
「今、祖国は混迷の時。コジロウタ様。お願いいたします。どうか……どうかお戻りになってはいただけませんか? 皆、コジロウタ様の御帰還を心待ちにしております!」
「フッ……参ったねぇ……。降参だ。お嬢にそう頼み込まれちゃぁ仕方がねぇ……」
「っ……!! ではッ……!!!」
「あいわかった。戦うしか能が無いこの身なれど、危機に瀕した祖国を捨て置いた不義理は雪がねばなるまい」
「ありがとうございますッ!! お父様も……姉様たちもきっと喜びます!!」.
真剣な面持ちで帰還を乞うシズクに、コジロウタが苦笑いを浮かべてゆっくりと頷いた。
瞬間。シズクは飛び上がらんばかりの喜色を露にすると、満面の笑みを浮かべてコジロウタに礼を告げる。
しかし……。
「だが、すまないが直ぐにという訳にも、ヤタロウ殿がこの書状で寄越したもう一つの願いは聞いてはやれん」
「えっ……?」
一転。
揺るぎの無い声で続けられたコジロウタの言葉に、シズクは冷水を頭から被せられたかの如く、硬直して弱々しい声を漏らした。
ヤタロウが書状にしたためた願いは二つ。
一つは今まさに、シズクが希ったギルファー本国への帰還。
そしてもう一つは、この地で厄介事に巻き込まれているであろうテミスへの助力だ。
それが聞き入れられないという事はつまり……。
「拙者、流浪の旅の最中、傭兵や冒険者……用心棒の真似事をしているのだが……」
「まさか……!」
「ウム。このネルードが、大枚を叩いてまで捕えんと欲する輩……その腕がたいそう気になってな。今はひと時とはいえ、ネルードに草鞋を脱ぐ身なのだ」
「ッ……!!! なりませんッ!!! あの方は我らが祖国の大恩人ッ!! 私にとっても……憧れの方なのですッ!!」
「……で、あろうな。ヤタロウ殿の書状にも、口酸っぱく書かれておったわ」
「でしたら何故ッ……!!」
ぽすり。と。
必死の形相で声を荒げたシズクの額を、気配すら感じさせる事無く伸びたコジロウタの掌が柔らかく受け止める。
瞬間。
あまりの驚きにシズクはピタリと言葉を止めると、目を見開いたままコジロウタを見つめて視線を以て問いを重ねた。
「我が主足り得るのは、我が刀を以て推し測った者のみ。ヤトガミ殿のご子息とはいえ、拙者が忠を捧ぐに足る者であるのかは私が断ずる」
「ッ……!! ヤタロウ様が、主足り得ぬと申すのですか!?」
「それを測ると言っているのだ。たとえ自身に戦う力が無くとも、強き者と縁を結ぶ力もまた力の一つ。なればこの戦場こそ、測るには好機と言えよう」
「ですがッ……!!」
「お嬢。これ以上の我儘はご勘弁を。これでこそ、一度身を寄せたネルードへの義理も果たし、祖国への忠も果たす事ができるというもの」
「ッ~~~……!!!」
シズクは必死で食い下がるものの、きっぱりと言い切ってみせたコジロウタの言葉に、唇を噛み締めて俯いた。
如何に言葉を重ねようとも、コジロウタの意志は鋼よりも固く、結論を変えることはできないだろう。
そう察しているからこそ、シズクは己を襲う無力感と絶望感に肩を震わせた。
「なれば、行くと良い」
「えっ……?」
「拙者が拙者の義理を果たすように、お嬢もお嬢の義理を果たすのだ。憧れの大恩人と共に拙者の前に立ち、強くなったその剣を見せておくれ」
「ッ……!!! 承知しました。然らば、次に相まみえるは戦場にてッ!」
「ウム……楽しみにしている」
そんなシズクに、コジロウタが優しい声色で告げると、弱々しく揺れていたシズクの瞳に燃えるような光が灯る。
そして、顔をあげたシズクは凛とした声で、コジロウタと別れの言葉を交わすと、互いに鞘ごと手にした刀を軽く触れさせ、身を翻して店を後にしたのだった。




