2070話 最初の一歩
「下らん問いだ。ふざけた妄言を垂れている暇など、私達には無い筈だ」
静かに数秒、テミスはアイシュから差し出された掌を見つめた後、鼻を鳴らして不敵な微笑みを浮かべて口を開く。
恐らく、今アイシュが語ってみせた事に嘘は無いのだろう。
彼女の身になって考えてみれば、ロンヴァルディアに渡った時に被らざるを得ない不利益も理解できる。
だがそれは、あくまでもアイシュの主観に則ったもので。
もしもアイシュが、フリーディアの底の抜けたお人好しっぷりを知っていれば。ロンヴァルディアの更に向こう側。人と魔が共に暮らすファントの町の実情を知っていれば。
自ずと導き出される答えは違ったはずだ。
しかし、それらを知るテミスがいかに語り聞かせた所で、テミスがアイシュの言葉を鵜呑みになどできないように、アイシュにとってその情報が信足り得るものにはならないだろう。
それを理解しているからこそ、テミスがそれ以上口を開く事は無く、必要以上にアイシュの事情に踏み込む事をしなかった。
ただ、『見上げた根性を持つ変態』であるアイシュが、このまま何も知ることなく、ネルードという狭い世界の中に閉じ籠っているのは勿体無い……。
ほんの少しだけ。テミスはそう心の片隅で呟きを零した。
「今のネルードを……ひいてはこの下らない戦争を吹っかけたヴェネルティを叩き潰す。利害が一致しているからこその共闘。元々は刃を突き付け合い、身を刻み合った敵同士だったのだ。我々の関係など、今はそれで十分だろう」
「それも……そうですね」
肩を竦めて言葉を続けたテミスに、アイシュは柔らかな微笑みを浮かべると、コクリと頷いて隣に並び立った。
アイシュのように自らと共に来いと告げるのも。ロンヴァルディアに……ひいてはファントへ来いと告げるのも性急に過ぎる。
まずは一歩ずつ。これまでは顔を合わせれば殺し合うしかない敵同士だったのだ。
刃を交える事無く平和に言葉を交わす事ができているだけでも、大きな進歩だと言えるだろう。
「それで? 貴女はこれからこのネルードでどうするつもりなのですか? もしも今夜や住む場所も無いのならば、色々と便宜を図れますよ?」
「どう……と問われてもな……。私の目的は既に告げた通りだ。ならば酷く癪ではあるが、その渦中に在る今のお前に手を貸す事が目的であるともいえる」
元より。
テミスたちの帯びている任務には、誰かを暗殺したり何かを破壊したりといった、具体的な達成目標は無い。
ただ、ロンヴァルディア側の態勢が整うまで、ヴェネルティ側の足を止める事。
その為に、一番戦力に余裕があると目されるネルードに潜り込んだのだ。
だからこそ、どうするともりだと問われても、曖昧な答えを返す事しかできないのだが。
「その申し出は大変ありがたい。ですが……私も今は身を潜めて準備をしている所なのです。そこへ貴女という戦力が加わってくれるのならば、計画をかなり前倒す事は出来るのですが……」
「ならばまずは計画とやらを共有しろ。勘違いして貰っては困るが、あくまでもこれは共同戦線。お前の指揮下に入る気は毛頭ない。こちらはこちらで動く」
「やれやれ……つれませんねぇ……ホント……。ですがそういう頑なな所が貴女の魅力でもあるのですが……」
「寄るな。触るな。鼻息を荒げるな」
テミスの曖昧な言葉に、アイシュはぱちんと掌を合わせて答えたものの、出奔したばかりのアイシュもいまだ準備が整っていないらしい。
その答えを受けて、冷ややかな声で冷たい言葉を叩き付けるテミスに、アイシュはにんまりと締まりのない笑みを浮かべてテミスの頬へ掌を伸ばした。
だが、邪な気配を纏ったアイシュの掌がテミスに届く事は無く、更に冷たさの増したテミスの言葉と共に、ピシャリと叩き落とされる。
「……わかりました。では、今私が身を寄せている組織には、貴女は私の個人的な協力者という事にしておきましょう。勿論、貴女の素性は伏せて……そうですね、流しの傭兵という事にでもしておいてください」
「フッ……傭兵か……」
「……? 何か?」
「いいや、ちょうど都合が良いと思っただけだ。ちょうどこの間、胡散臭い男から傭兵としての私が名を賜ったばかりでな」
「男……ッ!? から……ッ!? です……って……!?」
「……? あぁ。ネールという。丁度良いから、そちらにはこの名で通しておいてくれ」
「なっ……ぁっ……!? お……男……ッ……!? 男……っ……!!」
淡々と告げたテミスの言葉に、アイシュはビシリとその身を硬直させると、身を震わせながらうわ言のようにブツブツと呟きを始める。
けれど、テミスはアイシュの受けた衝撃に気付かず、軽い調子で話を先へと進めた。
「おい。何を呆けている?」
「ハッ……!? 了解です。わかりました。では、ひとまず連絡を取り合う方法を決めましょうか。こちらは話を通しておきますので、直接私を訪ねてきていただければ大丈夫です」
「わかった。ならば、私に用がある時は公国革命団の連中に伝えて呼び出してくれ」
「……聞かない名ですね。わかりました。では次ですが――」
そんなアイシュの異変を、テミスは僅かに遅れて気が付くと、パンパンと手を叩いて正気に戻す。
その後二人は、手早くこれからの共闘体制に向けて、細かな情報を交換したのだった。