2069話 変態の動力
アイシュが声高に言い放ったその宣言に、テミスは凍り付いてしまったかのようにビタリと動きを止める。
ネルードが欲しい。
ただ口にするだけならばそこいらの子供にだってできる妄言だが、ことアイシュに限っては冗談では済まされない。
テミスに匹敵する戦力をも有するアイシュは、単身で町一つを陥落させるくらいならば簡単にやってのける筈だ。
尤も、同格の戦力を親衛隊として擁しているネルードや、ギルティア率いる魔王軍が座するヴァルミンルヘイムのような大都市は、いかにアイシュと言えども不可能だろう。
だが、アイシュは誰もが笑い飛ばすであろう妄言を企む事ができる力を確かに有しており、そんな彼女が今、自らの口で叛逆を宣言したのだ。
「えぇと……反応が薄いですね? 流石に寂しいんですけれど」
「…………喜べ。十分に驚いている。言葉も出んくらいにはな」
「ははっ! それは良かった。なにせ、貴女は私の野望を明かした初めての人なのですから」
「だが、随分と急な心変わりだな?」
「クス……実はそうでもないんですよ。これまではただ、国に反旗を翻してまで行動を起こす理由が無かっただけで」
じゃり……と。
アイシュは静やかな微笑みを浮かべながら、通りを形作る傍らの壁へと歩み寄ると、そのまま掌を当てて語り始めた。
「貴女は知っていますか? 今でこそネルード公国は煌びやかで目覚ましい発展を遂げていますが、僅か十年ほどまではヴェネルティに連なる四国の内で最も貧しい小国だったんですよ?」
「フム……? 今の姿からは想像もできんな」
「えぇ。水産業こそ発展しているものの、他の三国や対岸のロンヴァルディアに勝る訳でもない陰なる国。転機が訪れるまでは誰しもが密やかに、近々どこかの国に吞み込まれると囁いていました」
アイシュの語り口は飄々としたいつもの調子ながらもどこか懐かし気で、臨場感のある内容から、それがアイシュ自身の経験なのだ……と、テミスは黙したまま理解をする。
この話に何の意味があるかなど、テミスには皆目見当もつかなかったが、他でもないアイシュが語る事なのだ。
何処から思っても居ないような重要な情報が飛び出すかも知れず、テミスは細心の注意を払いながら耳を傾け続けていた。
「確かにあの頃は貧しかった……ですが皆自由でした」
「まるで今が自由では無いような言い草だな?」
「えぇ。貧しい国でしたから、他の国では生き辛い方々も大勢流れてきていた。当時のネルードの民はたとえ混ざり者であろうとも、そんな事を気にしている余裕はありませんでしたからね。ですが今思えば、きっと先生はそこに目を付けたのでしょう」
「…………」
『先生』
度々アイシュの話にあがる人物で、恐らくは今のネルードを作り上げ、支配している人物だ。
その正体は転生者であるとテミスは睨んでおり、ネルードの町に足を踏み入れた今、予感は確信に変わりつつあった。
「……。貴女がどこまで情報を集めているかは分かりませんが……知っていますか? この呪法刀は、ヒトの想い……感情……思念を練り込み、凝縮して鍛造されている」
「胸糞の悪そうな話だな」
「それはもう。吐き気が込み上げてくる程に。怒り、恨み、妬み、嫉み……先生が仰るにはそういった負の感情はとても強力なんだそうです」
チン……。と。
軽い音を奏でながら自身の剣の鯉口を切ったアイシュに、テミスは反射的に応戦すべく身構える。
しかし、アイシュは苦笑いを浮かべて肩を竦めてみせただけで、そのまま剣を腰へと戻して話を続けた。
「故に。今この国で暮らす者達は、全て先生の糧……材料なのです。今の社会の在り方も意図して作り上げられたもの……何一つ自由などありませんよ」
富裕層と貧民層を別け隔てる事で、そこから生まれる感情を利用する。
負の感情を溜めやすい貧民層は人攫いとして『材料』を国へ貢ぎ、富裕層は貧困層を焚きつける薪として、そして時には富んでいるが故の想いが、国に『収穫』されているのだろう。
「この戦いを望んだのも『先生』です。ですが、事がここに至ってしまっては既に、先生を討った所でこの大きな流れは止められません。……ですが」
「……随分と勿体を付けたな? つまるところ、お前がこの国を止めると言いたいのだろう?」
アイシュの話が結論に差し掛かりかけたとみて、テミスは皮肉気な微笑みを浮かべて口を挟むと、手短に話を纏めてみせる。
なんだかんだと理由を付けてはいるものの、話を総括すると行き着く場所はそこしかない。
だがからこそ、アイシュはテミスに手を貸せと言いたいのだろう。
そうテミスは、真剣にアイシュの胸中を慮っていたのだが……。
「つまりはそういう事です。ロンヴァルディアへ逃れた所で、そこで待つのは新たな戦いでしょう。それでは到底、助けたなんて言えませんからね。可愛い子のためなら、国の一つくらい陥としてみせなくては。勿論! その際は貴女たちも加わってただいて構わないのですよ?」
そんなテミスに、アイシュはしまりのない笑顔を浮かべると、軽薄な調子でテミスに掌を差し出してみせたのだった。