2067話 鮮烈なる大脱出
数分後。
策を講じたテミスはアイシュの傍らに膝を付くと、そのまま体を寄せて腰に手を回し、しっかりとその身を抱き寄せる。
「えぇと……あの。本当にこれで行くんですか?」
しかし、当のアイシュは僅かに頬を染めて嬉色を見せてはいるものの、困惑に満ちた眼差しでテミスを見つめた。
だが、そうしている間にも刻一刻と時間は過ぎていき、時間が過ぎれば過ぎるほど、テミス達が逃げおおせるのは難しくなる。
だからこそ……。
「ならば、他に策はあるのか? あるのならば今すぐ、早急に言え。私だって、好きでお前とこんな姿勢など取るものか」
「いや有りませんけど……幾らなんでも無茶だと言いたかっただけです。自殺行為にしか思えません」
「お互い様だ。我々は共同戦線を張るのだろう? お前は私の命を預かり、私はお前の命を預かる。そうして初めて、共に戦場に出る事ができる程度には信が得られるだろうさ」
「ハァ……やれやれ……。フリーディアさん……とか言いましたっけ? 私、今はじめて貴女のお仲間に心の底から同情しています」
「クク……減らず口を……。よし……こちらはいつでもいいぞ!」
「まったく……こんな状況でなければ至福のひと時……もっとこの感触を楽しんでいたかったのですが……」
互いに皮肉と軽口を叩き合いながら、テミスは数度足を踏み鳴らして姿勢を整え、アイシュは溜息まじりに無駄口を添え、地面に付き立てた剣を固く握り締めて準備を整える。
ここまで派手にやり合ってしまった以上、普通のやり方では大勢の前から姿をくらます事など到底できないだろう。
それに加えてテミスは、土地勘のないこの町では、金魚の糞が如く付き纏う群衆から逃れるにも一苦労である事は想像に難くない。
ならばこそいっそ派手に。そして強引に突破してしまえば良い。
それこそがテミスの捻り出した秘策であり、アイシュが呆れかえった奇策でもあった。
「フン……そんなもの、今のうちに存分に味わっておけ。二度とは無い」
「あっ……! ああぁっ……!! 仄かな柔らかさの向こう側に……ゴリゴリと固い骨の感触がッ……!!」
「ッ……!! 喘ぐな悶えるな気色悪いッ……!!」
「貴女のせいですよ? 急に強く抱きしめるから……!!」
「っ…………。チッ……! こんな状況でなければ、鯖折でも決めてやるのだが……」
テミスが身構えた傍らで突如、アイシュが身震いをしながらくねくねと悶え始める。
そのあまりの気色悪さに、テミスは思わず密着させていた身体を離し、苛立ちと抗議の意を込めて鋭い視線でアイシュを睨み付けた。
だがその抗議も、アイシュには全くもって通じていないらしく、テミスは代わりにその苛立ちの分も込めた金剛力で、再びアイシュの身体を抱き寄せる。
「おほほっ……!!」
「……いい加減にしろ。僅かでも間を外せば、私達は死ぬんだぞ」
「だからこそ……ですよ。命懸けの一手に挑むのですから、ギリギリまで気力を充実させませんと。ほら、貴女も。顔とか埋めても良いんですよ? こう見えて私、胸は大きい方なので」
「チィ……!! 御免被る。こちらの気力が削がれるわッ……!! さっさと準備を整えて始めろ!」
再び身体を密着させたテミスに、アイシュは奇妙な悶え声を重ねる。
しかし、既に覚悟を決めていたテミスに二度は通じず、冷ややかな呆れ声が向けられた。
けれど、アイシュは剣を地面に付き立てた格好のまま、器用に自身の胸をテミスへ差し出すと、そのままぐりぐりと身体を押し付けはじめる。
だが、テミスもまた己の役目に備えて意識の集中を始めており、あしらうような言葉こそ返されたものの、身体が微動だにする事は無かった。
「ふっ……わかりましたよ。ですがたしかに、そろそろ時間も限界らしい。では……いきますよッ!!」
そうアイシュが嘯くや否や、周囲を囲う闇色の壁の何処かから、まるでこじ開けようとしているかのようにガンガンと叩く音が響き始める。
「応ッ!!!」
「三……二ッ……イチッ……!!!」
防壁を削る音に負けない声でテミスが応えると、アイシュは即座にカウントを始めた。
その掛け声に力が籠ると共に、身を寄せあったアイシュとテミスの足元から、急速にせり上がった闇が柱のように聳え立ち、二人を一気に上空へと射出する。
しかしその先には、アイシュ自身が張り巡らせた防壁が待ち構えていて……。
「ッ~~~!!!!」
だが、テミスとアイシュが乗った闇色の柱が砕け散るよりも僅かに早く。
周囲を覆い隠していた防壁が先に崩れ始める。
けれど、防壁が砕け散るのと柱が砕け散る間に存在した時間は一秒にすら満たず、傍目から見れば二つが崩れたのは全くの同時だったはずだ。
「ッ……!!!!」
そんな刹那のタイミングを捉えたテミスは、アイシュを抱えたまま崩れ去る直前の闇色の柱を力強く蹴ると、散り落ちていく防壁の破片を突き抜けて共に群衆の前から姿を消したのだった。