2066話 互いに益を食みて
緊迫感を帯びた沈黙が、アイシュとテミスの間に横たわる。
もしも、アイシュが本当にネルード政府から追われる身となっているのなら、今宣ってみせた事も真実なのだろう。
だが、今のテミスにそれを確かめる術は無く、ただでさえ敵であるアイシュの言葉を鵜呑みにする事など、テミスには到底できない。
かといって、全てをご破算に投げ捨ててこの場を離れる訳にもいかず、結果としてできる事はただアイシュの出方を窺う事だけ。
つまり、この沈黙こそが何よりの答えであり、テミスの立場を如実に物語っていた。
「……なるほど。ではこうしましょう。実は私、あれから本国に戻った後、晴れて追われる身となってしまいましてね。今ではこうして姿勢に身を潜めているのです」
「何があった? あれほどネルードに心酔していたお前が離反するなど、そうそう信じられる事ではないぞ」
「別に……心酔していた訳でも、忠誠を誓っていた訳でもないのですがね。ただ私にとって都合がよかった……というだけで」
「御託は結構。詳しく話せ」
「長くなりますので詳細は後程。ただ、貴方が納得するであろう理由を一言で提示するのならば……。そうですね、とある場所で可愛い子を拾いましてね」
「…………。呆れた……本物の馬鹿だよ。お前は」
クスリと得意気な表情すら浮かべて言葉を紡いだアイシュに、テミスは一瞬だけ目を瞬かせて驚きを露にすると、己が心情を隠す事無く真正面から言い放つ。
しかし、その理由はアイシュが筋金入りの『変態』である事を知るテミスにとっては、遺憾ながらも納得するに足る理由で。
「だが……そういう馬鹿は嫌いじゃない。後で詳しく聞かせろ」
「えぇ。喜んで。では、次は貴女の番ですよ?」
「観光だよ。敵情視察という名のな。ついでに内側をかき回してやろうと企んで居た所さ」
「ふむ……良い町でしょう?」
「見るに堪えん。酷い町だ」
「残念。貴女ならば、そう言うと思いました」
淡々とした口調でテミスはアイシュの問いに答えると、涼し気な表情で返してみせたアイシュに皮肉を叩き付ける。
だが、その皮肉すらもアイシュは肩を竦めてみせただけで。
その余裕を感じさせる態度に、テミスは僅かに眉を顰める。
「でしたら、ちょうど良い頃合いでしたね。私が離反したせいで、ネルードはいま混乱を極めている」
「そうだな。早速私も本国へ戻ってこのことを報告、進軍を開始するとしようか?」
「それは困りますね。今ロンヴァルディアに侵攻されては、我々ネルードも一つにまとまって抗わざるを得なくなります」
「いけしゃあしゃあと良く言う……戦端を開いたのはお前達だろうが……」
そうして始まったのは軽口の応酬。
とはいえ、全くの無駄話をしているのではなく、テミスとアイシュは互いに攻守を目まぐるしく繰り返しながら、互いにとって一番利のある着地点を探っていた。
しかし、幾度目かのアイシュの軽口にテミスが言葉を返した時だった。
歴然たる事実であり、他愛もない言葉であったにもかかわらず、アイシュは言葉を止めて眉根に深い皺を寄せ、苛立ちを露わにしてみせたあと、ゆっくりと口を開く。
「えぇ……本当に……余計な事を思い付いてくれたものです」
「……?」
「おっと。これは失礼しました。なに、私はただ、可愛い子達に囲まれて、楽しく日々を過ごせれば良かった……というだけの話なのですけれどね」
雰囲気の一変したアイシュに、テミスが眉を顰めて首を傾げるが、アイシュはすぐに我に返ったのか、すぐににっこりと艶やかな笑顔を浮かべておどけてみせる。
とはいえ、アイシュにも譲れない何かがあり、その何かのために地位を棄て、野に降った事は確からしい。
「ならば――」
「――いいえ、ここは私から。どうです? ここは一時休戦。相互利益のために共同戦線といきませんか?」
相応の理由があるのならば、利害の一致する間は手を組む事も出来る。
そう判断したテミスが口を開きかけるが、すんでの所でアイシュはそれを制すると、テミスが言わんとしていたことを先んじて口にした。
これもまた、アイシュなりの誠意というものなのだろう。
互いに利のある共同戦線とはいえ、提案した側が助力を求めた格好になるのは避けられない。
故に。
アイシュは自身からこの提案を口にする事で、同時に自身が今のネルード政府に与するものではないと、行動を以て示してきたのだ。
「了解した。ではひとまず、力を合わせてこの場から逃げ出す策を練るとしよう」
そんなアイシュに、テミスはニヤリと不敵に微笑みかけると、コクリと頷きを返しながら静かにそう告げたのだった。




