2058話 衆愚の獣
「うわぁっ……これ……まっずいかも……!!」
背後で轟々と吹き上がる非難を聞いて、真っ先に足を止めたのはユウキだった。
一方で、野次馬たちの事など歯牙にもかけていなかったテミスは、突然立ち止まったユウキの傍らを数歩通り抜けながら短い言葉で問いかける。
「なんだ? 何がまずい?」
「このままだとあの人たち……ううん。ヘタをすると今ここに居る人たち全員、死んじゃうかも」
「……何だと?」
だが、テミスの問いに返された答えは想像だにしていなかったもので。
そこで漸く、テミスはビタリと足を止めると、数歩の距離を引き返してユウキと肩を並べる。
「あの人たち、たぶんアレがエツルドだってことを知らないんだよ。だから、平気であんな風に……」
「だからと言ってだ。ここに居る全員が死ぬのは言い過ぎだろう。声をあげた数名が連行されて消されるのがせいぜいだ。尤も、喧嘩を売ったのは連中の方。自業自得だ」
こうしている間にも、野次馬たちから飛び出す非難の声は大きくなり、見かねた兵士たちが列を作って群衆たちの行く手を阻み、押し合いへし合いを始めていた。
だからこそテミスとしては、取るに足りない……むしろ好都合な一幕であり、巻き込まれる前にさっさと離脱するべきだと考えているのだが……。
「そうもいかないんだよっ! エツルドって怒ると見境が無いから……! ボクもヴェネルティに居た頃、何回あいつを止めたか分からないもん!」
「それほどまでなのか……? いやだが……ンッ……!?」
気が気でない様子で事態を遠巻きに眺めるユウキにテミスが僅かに意識を切り替え、再びエツルドの方へと視線を向けた時だった。
異変に気付いたらしい一部の治安維持隊の者たちが合流し、野次馬たちを宥め留め始める。
そこには、テミスの見知った顔である、あのスイシュウの姿も見受けられた。
だが、その顔にはテミスと対峙した時のような、飄々とした余裕はなく、必死の形相で野次馬の暴走を止めているように見えた。
「フゥム……?」
あのスイシュウですら、余裕をかなぐり捨てるほどの事態が起きている。
現状をそう認識し直したテミスは小さく喉を鳴らし、目を細めてエツルドの様子を窺った。
今のところ、短気で直情的との印象を受けたエツルドも、ただ黙って佇んでいるだけで、其れらしい反応を見せてはいないが……。
「コラァッ!! どうせ何もできねぇ下っ端共は退いてやがれ!! そこの偉そうなデカブツだよッ!! 黙ってねぇでさっさと詫びの一つくらい入れたらどうなんだよォ!! アァッ!?」
「こら!! 刺激しなさんなって!! っ……!! いかんッ!!」
ひと際気性の荒い声が、野次馬の中から放たれた時だった。
それまで、何の反応も示す事無く立っていたエツルドの身体が動き、自らへと非難を浴びせかけている群衆の方へと向き直る。
その瞳は怒りに満ち満ちており、群衆へ向けて対応していたスイシュウが一転、身を翻してエルツドの前へと踊り出た。
「エツルド様ッ!! まずいですよぉっ! 彼等はネルードの民なのです!! 刃を向けては先生に叱られてしまいます!!」
「退けェ!! コイツ等は、今ッ!! 俺様になんつったッ!! アァッ!!?」
「さがって!! 下がれェッ!! 早くしろッ!!」
しかし、スイシュウの説得も、エツルドの怒りを収めるには至らず、低く野太い怒号がビリビリと奏でられる。
そんな怒号を背で聞いた所為か、列を作っていた兵士たちの声にも焦りと熱が籠りはじめ、場が次第に混沌と化していく。
だがそんな最中。
テミスは今もなお野次を飛ばしている野次馬たちの中から数名、コソコソと逃げ出していく者達の姿を見逃がしてはいなかった。
そこには、テミス達と言葉を交わしたあの男の姿もあり、それを見止めたテミスの瞳が鋭く細められる。
「ノル……連中は……」
「っ……! 恐らく、扇動者でしょう。何処の者かまではわかりませんが、今のネルード政府を良しとしない手の者の」
「チィッ……!! 胸糞の悪いッ……!」
テミスは、自分達が足を止めたことに気付いて踵を返してきたノルに、逃げ出していった男たちを指差して問いかける。
すると、ノルは小さく息を呑んだ後、すぐさまテミスの想定した中で最悪の回答を導き出した。
つまるところ、今残っている群衆は連中に煽り立てられただけの捨て駒で。
ユウキから聞かされた話と、扇動した連中が逃げ出していったことを踏まえれば、ここでこれから何が起こるかなど想像に難くはない。
「どうせあそこにはサン達も居るんだろうな……。折角手に入れた拠点が、こんな下らん事で潰されては困る。ユウキ、ノル、リコ。お前達はあの中からサン達を見つけ出して拠点へ撤退しろ」
そんな、刻一刻と迫り来る最悪の未来を前に、テミスは深くため息を漏らした後。
傍らに立つ仲間達へ指示を出すと、返事を聞くよりも先に野次馬たちの中へ向けて走り出したのだった。




