2046話 脆き小舟
夜明け前の穏やかな湖面を、一隻の小舟が滑るように進んでいく。
小舟はところどころが苔を蒸し、ともすれば流れ着いた廃材と見間違ってしまいかねない程ボロボロで。
遮るものの少ない湖の上では、遠くを流れていく陸地からも、ゆっくりと進むこの船を見付けることはできるだろう。
だが……。
「クク……一番ボロボロの船を選んだ甲斐があったな。順調じゃないか」
もぞりと伏せていた身体を動かして、テミスは僅かに小舟の縁から顔を覗かせると、不敵な笑みと共に満足気に言葉を漏らした。
事実。
ネルードの港から出る折には、民間船用に設えられた水路の中でも最も細くて使い勝手の悪そうな水路を選んだとはいえ、ロンヴァルディアとの戦時中である為か、監視が全くのゼロという訳ではなかった。
けれど、夜の闇に紛れて進むボロボロの小舟を気に留める者はおらず、テミス達は無事に監視の目を潜り抜け、こうしてネルード郊外の湖上まで辿り着いたのだ。
「私は怖くてたまらないです。沈まないですよね? この船……」
「なに……万が一沈んでも泳げばいいさ。陸は見えているんだ。問題無い」
「帰りはどうするんですかっ!? 船で戻らないと、私たちが抜け出していたことは確実に露見しますよ!?」
「む……? あぁ……それもそうか。私としたことが失念していた。ならば、せいぜい沈まないように祈るとしよう」
「いのッ……!!! っ~~~~~!!!」
傍らでガクガクと恐怖に身を竦ませるノルに、テミスはけろりとした表情で答えを返す。
その答えに、ノルは絶望に表情を引きつらせながら、声にならない悲鳴をあげ、再びテミスに身を寄せるようにして船底に座り込んだ。
とはいえ、テミスの体力と身体能力ならば、別にわざわざ船を使わずともテルルの村まで泳いで渡る事も出来なくはないのは事実で。
しかし、こうして船に乗っているよりも体力を食うのは間違いないし、何より着ているもの全てが水に濡れて使い物にならなくなるのは面倒という程度なのだ。
けれど、それはあくまでもテミスが単独で行動した場合での話であって、確かにノルを担いでテルルの村からネルードまで泳ぎ切るとなると、船よりは時間がかかる可能性は高い。
「そう悲観するな。ホラ。コイツも頑張っているじゃないか」
「ひぃっ……!? 叩かないで下さい! 壊れちゃう! 壊れちゃいますから!!」
「おいおい。私たちが乗っているんだぞ? いくらボロボロだとはいえ、軽く叩いた程度で壊れる訳が……」
怯え竦むノルを宥めるように、テミスは船べりを軽く掌で叩きながら告げるが、怯え切ったノルにはそれすらも逆効果だったらしく、ノルは涙目で悲鳴をあげた。
だが現実的に考えて。現にテミス達の体重を支えているこの船が、そこまで脆いはずが無い。
そう、テミスは確信していたのだが……。
「あっ……」
「ッ~~~~!!!!!!」
ぐずり。と。
数度。船縁の適当な位置を叩いたテミスの手が、気持ちの悪い感触と共に船を形作る木材の中へと潜り込む。
どうやら、テミスたちを乗せて浮かぶ事こそできているものの、部分的には既に朽ち果てている箇所もあるらしく、特に苔の蒸している端の辺りは恐ろしく脆いらしい。
露呈してしまった真実に、テミスはボロリと崩れた木材から手を引き抜きながら声を漏らすと、それを目を剥いて凝視したノルが更なる絶望の悲鳴をあげた。
とはいえ、端が崩れようとも航行に支障はなく、テミス達を乗せた小舟からも、テルルの村が見え始める。
「まぁ……その……何だ。要は水に浮いて進む事ができればそれは船という訳でだな。つまるところ、この辺りの端が朽ち果てていようとも、我々の乗る船に問題は無いという事だ」
「問題大アリですッ!! それなら丸太にでも跨って行けば良いじゃないですか!! お願いですから、これ以上壊さないで下さいっ!!」
「わかった。わかったからあまり詰め寄るな。私とて、泳ぐのは本意ではないんだ」
「本当に……!! お願いしますからね!? 見えてこそいますけれど、陸までかなり離れているんですから!! 私はこんな距離、泳ぐの嫌ですからね!?」
「もう朽ちている場所には触れない……壊さないから安心しろ。それよりもホレ。まだ昏いから少しわかり辛いが、テルルの村が見えて来たぞ」
恐怖のあまりに錯乱しかけているノルが、やけくそ気味にテミスへと叫びを叩き付ける。
そんなノルを苦笑いを浮かべて宥めすかすと、テミスは船が進む先に僅かに見え始めたテルルの村を指差しながら告げたのだった。




