189話 協定準備
「さてと……」
数日後。
フリーディア達も帰り、テミスの休暇も終わった頃……。
軍団詰め所の中庭で、テミスは一人馬車の準備をしていた。
「よっ……と。これで良いか」
豪奢な装飾の施された馬車に軍旗を取り付け、テミスは一息ついて出来栄えを眺めた。そよ風に微かになびく軍旗が意外とマッチしており、なかなかに絵になる光景ではないか。
「だがまさか……ここまで華美だとはな……」
扉を開けて中に入り、テミスはその内装を眺めてため息を吐く。
そこには、よく物語の中で見かけるような対面式の座席は無く、広々と取られた空間は、まるで巨大なキャンピングカーのような形をしていた。
「今頃……奴等は何をしているのやら」
テミスは明らかに外装より大きい内部から首だけを出して空を見上げると、ロンヴァルディアへと帰ったフィーン達の事を思い浮かべた。
フリーディアはすぐに任務と言っていたし、今は何処かの戦場を駆けているのだろう。フィーンの方は王都でこの町の記事でも書いているのかもしれない。
「クク……まぁ、ゴシップ扱いされるのが関の山だろうがな」
皮肉気にテミスは頬を吊り上げると、地面に降りて馬車の戸を閉める。
人間達にとって、魔王領は悲惨で凄惨で禍々しいものらしい。故に、いくらフィーンが真実を伝えようとも、それが人間の世に受け入れられる事は無いだろう。自らの記事を嘘扱いされ、ぶうたれるフィーンの表情が目に浮かぶようだ。
「平和……か……」
馬車の上に掲げた軍旗を眺めながら、テミスは感慨深げに呟いた。
今思えば、あの世界ほど怠惰で恵まれている世界は無かった。ただ生きるだけならば苦労はしないし、頭を低く下げて過ごせば、その生が終わる事はまずない。
今日明日の食事にさえ困る……事実、そんな暮らしをしているのはごくわずかな者達だけだった。
「……だが。私はそれを生きているとは思わんよ」
引き金を引いたあの時。この大剣でカズトの首を薙いだ時……。選択の瞬間は数多くあったが、あの時に逆の選択をしていれば、きっと私は死んでいたのだろう。
心臓が動き、飯は食う。だが、その胸に掲げた矜持が折れていては死人と変わらない。何を成すでもなく、ただ生きる為に漠然とした毎日を過ごす……。
「私も大概、狂っているのかもしれないな……」
テミスはそう呟いて馬車に背を預けると、皮肉気な笑みを浮かべて自らの手に目を落とした。
長細く、色白なきめ細かい肌。人間離れした怪力を生み出す紅く汚れたその魔手は、まるで皮肉を語り掛けているかのように白魚の様に美しい。
「テミス様。お待たせいたしました」
物思いに耽りながら、テミスが自らの手を眺めていると、不意にマグヌスの声が飛び込んできた。顔を上げるとそこには。テミスのものに似た意匠の軍服に身を包んだマグヌスの姿があった。
「ああ。こちらの準備もできている。出発しようか」
「ハッ! 畏まりました!」
その姿を確認したテミスが小さく頷くと、マグヌスが敬礼と共に御者台に飛び乗る。そして手綱を握ると、緊張した顔でテミスを振り返って口を開いた。
「行き先は直接テプロー……で、よろしいのですね?」
「ああ。プルガルドを経由せずにな。リョースに見られると面倒だ」
「っ……! 承知いたしました」
テミスの言葉に、マグヌスは微かに表情を引きつらせて頷くと、覚悟を決めたかのようにその目が鋭さを帯びる。
「まぁ、心配するな。大した事ではない……ただの講和条約だよ」
テミスはニヤリと笑みを浮かべてそう告げると、馬車に乗って適当な長椅子に腰を落ち着ける。
プルガルドとテプローの間には森林地帯が広がっているため、まずこの訪問が露見する事は無いだろうが……。
「では。出発いたします」
「ああ。頼んだ」
前方からの声にテミスが応えると、微かな揺れと共に馬車が動き出す。
隠密性を重視するのならば、軍旗など掲げるべきではないし、そもそもこの馬車を使うべきではない。だがしかし、今回の私の目的はプルガルドとテプローの間での戦闘停止と欺瞞戦闘の提案をしに行くのだ。私個人としてではなく、魔王軍の軍団長としてケンシンに会いに行く以上、それを示す必要があるだろう。
「やれやれ……一人二役と言うのも大変だな……」
テミスはそう呟くと、その身を長椅子の上へと投げ出して寝転がったのだった。




