1991話 飴と鞭は使いよう
指揮所の天幕に溜まっていた執務の量は膨大なものだった。
ユナリアスを半ば無理矢理に説き伏せる形で寝かせた後、テミスは次々と積み上げられた書類に目を通していく。
部隊の運用計画に艦船の修理予定、物資及び人員の輸送計画と物資申請書に予算策定書など、内容こそ多岐にわたっているものの、ユナリアスとフリーディアの几帳面な性格のお陰か、書類は雑多に混じることなく大まかに種別ごとに分けて積まれていて。
その功績は非常に大きく、テミスは書類を斜め読みするだけで机上の配置を把握すると、書類の仕分けという非常に面倒で手間のかかる工程を省略して、早速実務に取り掛かる事ができたのだ。
「騎士団連中は今日も訓練か……やれやれ、まったく勤勉な事だ」
まず初めにテミスが手を付けたのは、この島に駐留している騎士たちへの指令計画だった。
とはいえ、砦も機能しておらず、拠点に手を加えようとも建材そのものが無い現状では、周辺警戒や歩哨警備の他にこれといった仕事は無く、ほとんどの者達に訓練が課されている。
基礎訓練では、砦までの山道の維持と道程への慣れも兼ねて、小隊ごとに分かれてパラディウム砦前までのランニングなんかを取り入れてはいるものの、それ以外は平時の訓練とさほど変わりはない。
「連中も飽き飽きしてくる頃だろうしな。どれ……少しばかり趣向を凝らすとするか」
代り映えのしない毎日というのは精神を腐らせる。
加えて、ここは酒場の一件すら娯楽が存在しない離島なのだ。
屈強な肉体を精神を持つ騎士であってもいずれ限界はくるし、この書類を見る限り、重度のカタブツであらせられる我等が騎士団長様は、どうやらその手のガス抜き事情には疎いらしい。
「そうしたらば……こちらもちょいちょい……っと……」
翌日以降の訓練計画書に、サラサラと軽快にペンを走らせて書き換えたテミスは、次の標的を定めて無造作に書類の山へと手を伸ばす。
そこに積まれているのは、ロンヴァルディア本国やヴェネルティへ物資を請求する目録だ。
精緻な文字で記されている項目は主に、水や食料などの最低限必要な食糧物資や、損壊した艦艇の修理に充てるのだと目される数々の資材ばかりで。
酒や煙草、そして甘味などの嗜好品の類は一つとして記されておらず、書類を記した者の生真面目さを表している。
思い返してみれば、先日の宴会もロロニアたち湖族が主催したもので、恐らくは提供された酒や食事も彼等が独自に持ち込んだものだったのだろう。
「フゥム……考えてみれば、珈琲も久しく飲んでいないな……。ま、この程度ならば職権乱用にはあたるまい。正当な褒賞……慰安品のようなものさ」
書類に決定的に欠けていた娯楽・嗜好品の類を次々と書き加える最中、テミスはふと思い至ってペンを走らせる手を止めると、顎に片手を当てて言葉を漏らした。
ファントに居る頃は、テミスの執務の供には常に、マグヌスの淹れてくれた珈琲があった。
だが、今この天幕の中を見渡してみると、温かな湯気と芳醇な香りを吐き出す珈琲はおろか、飲み水の類すら一切見当たらない。
こんな環境で執務などやっていられるか。
今もなお、鬼畜で堅物な騎士団長様の考案した無味乾燥な日々を送っている騎士たちの事を考えれば、テミスとてスズメの涙ほどの後ろめたさは覚えた。
けれど、熱した鉄板の上に落涙したかの如く、スズメの涙ほどの逡巡は瞬く間に消えて失せ、書面には新たに豆の種類まで指定したコーヒー豆と、ティーセットの文字が書き加えられる。
「さて。酒があるとなれば当然、肴も必要となる訳だ」
これだけ劣悪な環境に置かれていれば、酒だけでも十分以上の娯楽にはなるだろう。
だが、満足な肴も摘ままずに酒ばかり飲んだくれていては身体に悪いし、酒を飲んでも酔うことの出来ないテミスとしては、物足りないのが正直なところだ。
とはいえ、今この場にはまともな厨房どころか調理器具があるはずも無く、テミスは食事としての食材の他に、肴になりそうな食材を片っ端から書き加えながら、調理設備と調理器具、そしてついでに料理人の派遣も必要である旨も書き連ねた。
そして。
「むふーっ……。まぁ、こんなものだろう。この手の要求など、一度はダメもとで叩き付けてみるものだからな」
その他、テミスは己の主観に従って、次々と好き放題に書類に書き加えた後、満足気な息を吐いて自身の成果を読み返す。
そこにはもう、清貧にして規律と秩序の鑑のような内容であった書類など影も形も無く、山賊や野盗の被害目録とも見紛うばかりの、欲に塗れた品々が連なっていた。
「……少々やり過ぎたか? ま、無いよりはあるに越したことはあるまい。そもそも、全ての要求が通る訳もないしな。バランスはこちらで取れば良い」
改めて内容を確認したテミスは、僅かに笑みを浮かべて呟いたものの、結局それ以上筆を加える事は無く、物資に関する書類を端に寄せ、代わりに訓練や部隊運用を記した書類を手元に引き寄せると、ニンマリと嗜虐的な笑みを浮かべて嘯いたのだった。




