1989話 朝露の目覚め
テミスが目を覚ましたのは奇しくも早朝だった。
未だ陽も水平線の向こう側から顔を覗かせたばかりで薄暗く、朝露をふんだんに孕んだ空気が、独特の香りを発している。
そんな人気に乏しい仮拠点の中を、白翼騎士団の制服を身に纏ったテミスは、カツリ、カツリと杖の音を響かせながら通り抜け、指揮所の天幕を音も無く潜り抜けた。
「…………。ユナリアス」
「……っ!!!」
中では、淡く揺れる薄暗い明りの中で、ユナリアスが書類仕事に没頭しており、テミスが天幕の中へと足を踏み入れて尚、手元の書類に視線を注ぎ続けている。
そんなユナリアスに向かい合うこと数秒。
静かな声でテミスがユナリアスの名を呼ぶと、そこで漸くテミスの存在に気付いたのか、ユナリアスはビクリと大きく肩を跳ねさせて視線を上げた。
「テッ……リヴィア殿……!? 良かった……目が覚めたんだね……」
「あぁ。世話をかけた。すまない」
「どうか謝らないで欲しい。君に無理をさせてしまったのは私達の方なんだ。本当に……申し訳ない……」
「っ……。私はどれくらい眠っていた?」
「合同訓練の日から数えて三日……あぁ、もう日が明けたから四日になるかな」
「そうか……」
四日間も眠りこけていたのだ、道理で身体の調子が良いはずだ。と。
ユナリアスと会話を交わしながらテミスは天幕の奥までゆっくりと歩を進めながら、胸の内でひとりごちる。
能力を用いた治療は抜きにしても、この身体は普通の人間と比べてずっと治癒力が高い。
元よりこの身体自体があの自称女神の用意した器なのだ。恐らくは、人並外れた膂力や体力などと同じで、これも特典の一つなのだろう。
それでも外傷は完治せず、失った血や深く切り裂かれた肉から先に治っていっている辺り、化け物じみた回復力が露見しづらい『配慮』が見え隠れして、まるで全ての問題に先手を打たれているような感覚に陥り、どうにも厭になってくる。
「ところで……フリーディアはどうしたんだい? 予定ではキミの側に着いていた筈なのだけれど……?」
「置いてきた。私の枕元で眠りこけていたからな」
「あぁ……。重ねて申し訳ない。きっと、相当疲れが溜まっていたのだろう。君が倒れてからずっと、何を言っても休もうとしなくてね……」
「……」
「一応、君の側には私とユウキ君も着いて、一人にしないようにはしていたんだ。けれどフリーディアはその間も他の仕事を見付けて来ては打ち込んでいて……。キミが相手だから正直に言ってしまうけれど、日に日に憔悴していく彼女を見ていて、友人として気が気ではなかったんだ」
穏やかに訪れた沈黙を、柔らかに押し退けるように放たれたユナリアスの問いに、テミスはクスリと不敵な微笑みを浮かべて肩を竦めてみせる。
しかし、それに返された言葉に、テミスの視線が静かに鋭さを帯びるも、ユナリアスは気付く事なく、内に秘めていたであろう自身の思いを語り続けた。
ユナリアスは明言こそ避けてはいるが、フリーディアの性格を鑑みるに、本当に休んでいないのだろう。
年の頃と体力を考えれば、三日の徹夜をやり通す事は出来るだろうが、それでも疲労が蓄積していくのは間違いない。
「あの馬鹿が……」
もしも自分が、十日も二十日も目を覚まさなかったらどうするつもりだったんだ。
きっと、自身も倒れるまで……。否。倒れてもなお動き続けるのだろう。
砂を噛み締めるような思いに、テミスは低い声で吐き捨てるように呟くと、大きく息を吸い込んで沸き立ちかけた怒りを胸の奥へと鎮める。
眠っている時に見ていたあの奇妙な夢はきっと、虫の報せのようなものだったのだ。
ヒトは眠っている時に記憶の整理を行う生き物だという。
以前の生で経験した苦い記憶が、世界を越えてなお同じ轍を踏みかけていた私に、警鐘を鳴らしたのかもしれない。
「ユナリアス。見たところ、お前もあまり休めてはいなさそうだ。暫く変わろう」
「っ……! 申し出は非常にありがたい……! のだけれど……」
「現状の引継ぎまでは気張って貰うから心配するな。それでも不安ならば、寝床は用意するから、この天幕で仮眠を取れば良い」
作戦卓代わりの木箱の上に積み上げられた書類を手に取りながら、テミスは渋るユナリアスに淡々と言葉を投げかけた。
フリーディアの事を言いながらも、ユナリアス自身も目の下には濃い隈を作っている。
書類を流し読みした感覚では、フォローダ防衛隊との本格的な協力が始まったことで、火急的に応ずるべき案件が爆発的に増えたのだろう。
「フム……ざっと見たところ余裕は無いらしい。だからユナリアス、反論は無しだ。私が寝床の準備を整えている間に、お前はこちらの方針や現状など、説明事項を準備しておけ」
「待っ――!! ぁぁ……」
大まかな事情を理解したテミスは、手に取っていた書類をばさりと作戦卓代わりの木箱の上へと投げ戻すと、有無を言わさぬ気迫を以てユナリアスへ告げて身を翻す。
そんなテミスを引き留めるべく、ユナリアスは慌てて声を上げかけるが、足を止める事無く天幕の外へと出て行ったテミスの背中に、何処か力の抜けた声を漏らしたのだった。




