1972話 理知と想い
テミスが自らの正体を語り終えると、部屋の中を重苦しい沈黙が支配する。
しかし、それ以上の言葉をテミスが紡ぐ事は無く、ただ静かにモルムスが答えを出す時を待っていた。
「フム……」
やはり、このモルムスもノラシアスから防衛部隊の司令官を任ぜられるだけあって、ただの馬鹿と言う訳では無いらしい。
刻一刻と時間が過ぎていく沈黙の中で、テミスは己の眼前で唇を真一文字に結んだモルムスの顔を眺めながら、胸の内でひとりごちる。
今でもまだ、その表情の片隅に驚愕の残滓こそ残っているものの、既に思考は冷静さを取り戻しているらしく、理性の光に満ちた瞳は、テミスの顔を、瞳を、そして未だ抜き放たれたままの刀へと忙しなく走っていた。
恐らく今モルムスの頭の中では、テミスの告げた言葉が真実であるか否かが、必死で検討されているのだろう。
あれほど取りつく島もなく、頑固な頭の固さを見せていたというのに、こうしてテミスの話をまともに取り合う事無く否定しない辺りが、モルムスの優秀さを物語っている。
「……幾つか、質問をしても良いだろうか」
「構わん」
「感謝する。黒剣の死神……失礼、気を悪くしないでくれ。ロンヴァルディアに轟く彼の『魔王軍軍団長・テミス』の二つ名が示す通り、彼女が振るう武器は漆黒の大剣だと認識している。だが、今貴官が握るそれは、不可思議な形こそしてはいるものの、噂のそれとは程遠いように見える」
「大剣は嵩張るからな。それに今はこんな身体だ。時と場合に応じた装備を身に付けるのは、お前が良く知るであろう騎士たちとて同じはずだろう」
「で……ではッ……!! 貴官が負ったその怪我が偽りでないというのならば……まさか、あの報告書は本当なのか……!?」
「お前が読んだという報告書が何かは知らん。だが、私が相対した敵の強さは相当なものだった。アレの相手をまともにできるのは……私かフリーディアくらいのものだろう」
「っ……!!!」
ごくり……と。
淡々と質問に答えるテミスの言葉に、モルムスは干からびた喉を嚥下した。
魔族は人類の敵。斃すべき悪。幼少の頃よりそう教え込まれてきたモルムスにとって、眼前に腰掛ける元軍団長の少女は、討滅すべき巨悪だ。
だが同時に、これまでモルムスの積み重ねてきた経験と、祖国の為、ロンヴァルディアの為に磨き上げた知識は、絶望に等しい現状を正しく理解していた。
これまでモルムスが目を通してきた報告書には、明らかに詳細が記されておらず、情報が隠匿されているものがあった。
もしもそれが、この目の前の悪鬼の存在を秘するためのものであったのなら……。
――全て筋が通る。
到底勝ち目の無い戦力差を、たった一隻の船で覆してみせたパラディウム救出戦に、巨大戦艦の撃沈。
噂に聞く魔族は、人間を遥かに凌駕する怪力を有し、人間が扱うそれとは比べ物にならないほど強大な魔法を扱う。
元・魔王軍軍団長であった彼女はつまり、そんな化け物たちを従えていたという事で。
「それほどの傷を負ってまで……何故、貴官がロンヴァルディアに手を貸すんだ……?」
「…………」
微かに震える声で問いを重ねながら、モルムスはさり気なく降ろした右手で、腰に備えていた家紋入りのナイフを握り締める。
たとえ手負いといえど、今この場で自分が襲い掛かったとて、到底敵う相手ではないのだろう。
今武器を手にした瞬間、僅かに動いたあの紅の瞳は既に、こちらの動きを見切っているのやもしれない。
けれど。たとえ今は味方であったとしても、その狙いがフォローダに……ロンヴァルディアに害を為す為に白翼騎士団へと潜り込んでいるのならば……。
このまま黙って見逃す事などできないッ!!
「……戦いを続けて幾星霜。ファントの町を楔とし、僅かづつではあるが融和が成りつつある」
「何の話――ッ!!」
「私はこう見えて早起きが苦手でな。できるのならば昼前に起き、温かいコーヒーを啜り、暇を持て余して過ごす。そんな日々を過ごしたいと、心からそう願っている」
そんな決死の覚悟すら籠ったモルムスの問いに、テミスは小さく息を吸い込むと、顔に浮かべた皮肉気な微笑みを消してゆっくりと語り始めた。
だが、その内容はモルムスの問いとはまるで関係無いかのように思えるもので。
堪りかねたモルムスが口を挟みかけるも、テミスは掌を向けてそれを制し、つらつらと静かな声で言葉を続けた。
「だから邪魔なんだよ。漸く平和の若芽が芽吹いたというのに、下らん争いを引き起こそうてしているヴェネルティがな」
「しかし……貴官の都市が、魔王領が攻められている訳ではないというのに……!!」
「順番の問題だ。ロンヴァルディアが墜ちれば次はファント、次は魔王領だろう。ただ壁として使い捨てるよりも、手を貸してやればファント近郊が荒れることもあるまい?」
「っ……!! 確かに……合理的ではある……が……」
「それでも納得できんのなら、フリーディアの馬鹿が積み重ねた努力の賜物だと思え。敵の敵は味方。そう断じても良いと思える価値が、ロンヴァルディアにはあるのだと。奴は私に示してみせたのだからな」
「フリー……ディア様……ッ……」
モルムスの気迫の籠った問いに、テミスは偽らざる事実と思いを答えてみせると、答えを待つかの如く静かに口を閉じた。
事実。テミスの選び得る選択肢の中には、ロンヴァルディアを壁として使い捨て、その間に魔王軍と連携してヴェネルティを迎え撃つという選択肢もあったのだ。
そんなテミスの測るような眼差しの前で、モルムスは固く食いしばった歯の隙間から漏れ零すように、フリーディアの名前を呟いたのだった。




