1964話 届かぬ指の先
白く塗り固められた、広く長い廊下を一人の少女が駆け抜ける。
年の頃は十・四五くらいだろうか。
しかし、僅かにあどけなさの残る顔は悲痛に歪み、乱雑に切り揃えられたくすんだ灰色の髪は、僅かに赤く染まっている。
薄青い色の貫頭衣が、彼女がこの施設の『実験体』である事を示していた。
だがそれは異な事で。
研究室と呼ばれるこの施設の外縁にほど近いこの場所には、『実験体』である彼女の居場所など無く、本来であるならば彼女はこの地下に存在する地獄……実験場に在る筈なのだ。
「っ……!! ハァッ……ハァッ……ッ……!!!」
酷く乱れた息に、血の気の引いた青ざめた顔。
焼けつくような喉の痛みと霞む視界に、自身の限界が近い事を悟った少女は、手近な扉へ飛び着くと、倒れ込むようにして中へと滑り込んだ。
もしもその身に着ける衣服が示す通り、彼女が脱走者であるならば、最大の死角でもある扉を無遠慮に開け放ち、先を確認する事無く転がり込むなど、無警戒にも程がある行為だ。
しかし、それも無理もない話で。
そもそも、少女には戦闘経験などまるでなく、特別な訓練を受けた訳でもない。この『研究室』へ連れて来られる前は、ここから遠く離れた寒村の片隅で、細々と暮らしているだけの村娘だったのだ。
「ポルト……アルク……ッ……!!」
ずるり……と。
幸運にも人気の無かった室内で、少女は壁に背を預けながら座り込むと、祈るように組んだ手を額に手を当てて、震える声で言葉を零す。
それは、短いながらもこの地獄の内で彼女が心を共にした戦友の名で。
同時に、共に脱走を企てながらもはぐれてしまった仲間たちでもあった。
「二人とも……無事かしら……」
僅かに紅を帯びた薄茶色の瞳を固く閉じ、少女は今はこの場に居ない仲間達の顔を思い浮かべる。
真っ先に脳裏に浮かんだ屈託なく笑う赤毛の少女……ポルトの顔は疲労と恐怖で萎えかけていた少女の四肢に力を与え、癖の付いた黒髪の隙間から覗く瞳に凛々しい光を携えた少年の顔は、折れかけていた少女の心に勇気を取り戻させた。
「大丈夫……! 二人ならきっと無事なはず……!」
口元から覗く鋭い犬歯をきらりと光らせながら、少女は自身の身体を支配していた過剰な熱が退いていくのを自覚する。
少女たちが脱走を企てたのはなにも、綿密な計画の元ではなかった。
それは万に一つの偶然の中で、幸運に幸運が重なった結果。
偶然とは、実験から牢へと戻される途中で、アルクが盗み聞いた兵士の話。新たな研究が大詰めで、これからしばらくの間は『先生』は最奥の研究所から出て来ないらしいとの事。
幸運とは、畜生揃いの兵士の中でも、いっとう質の悪い兵に気に入られていたポルトが気紛れに地上へと連れ出された時、実験体の搬入口を見付けた事。
そこへ重なった幸運とは、アルクとは実験に使われた少女が牢へと戻される折に、間抜けな兵士が片づけ忘れた牢の鍵を掠め取れた事。
これを逃せば死を待つしかない少年少女たちに訪れた千載一遇の好機。
どうせこのまま従っていたとしても、ただ苦しみから逃れるために死を待つだけの運命。
「ポルト、ルルイ。やろうぜ。ここから逃げ出すんだ」
固く目を閉ざした少女の脳裏に響く声。
それは、衝動的に鍵こそ手にいれたものの、厳重な警備の敷かれたこの研究所から逃げ出す算段などまるで無かった少女の背を押した、同じ運命を背負った少年・アルクの勇気に満ちた言葉だった。
この場に留まり続ける限り、自分達に明日は無い。
もしも脱走が見付かれば、死ぬよりも酷い目に遭わされるのは理解している。
けれど、アルクの言葉はルルイの胸にも今なお消える事の無い勇気の炎を灯し、この部屋へと辿り着かせたのだ。
「……やってやる。私は……生きるんだッ……!! ッ……!!!」
決意を胸に、静かに目を見開いたルルイの瞳の色が、僅かに紅へと近付いた時だった。
少女が背にした扉の向こう側から微かに、コツコツと硬質な足音に併せて、妙に明るい調子の話し声が響いてくる。
「――ぁ助かりました。この子、ひと目見たらビビッ……! と来まして」
「間に合って何よりです。ですが、アイシュ様。本当……程々にしておいてくださいよ?」
「えぇ勿論。わかっていますとも。……ん?」
徐々に近づいてくる声に従って、二人分の固い足音に混じったペタペタと響く足音が一つ追加されると、自らの敵の存在を察知したルルイが恐怖に鋭く息を呑む。
それと同時に、丁度ルルイが身を隠す扉の前で、刻一刻と近付いてきていた足音がピタリと止まったのだった。




