1963話 欲望の肚
一方その頃。
ネルード公国【研究室】。
元はネルード公爵邸であった広大な屋敷を元に作り変えられたその場所は、今やネルード公国の全てを支えていると言っても過言ではない程の、最重要施設となっていた。
周囲を固める警備の兵達は皆、その手に、腰に、背中に、禍々しさを帯びた武器を有しており、その警備の固さがこの場所の重要度を物語っている。
「……相変わらず、無粋な建物ですね」
強靭な兵士たちに守護され、高い塀に覆われた研究室を見上げながら、アイシュはぽつりと呟きを漏らす。
その傍らを、ガラガラと音を立てて走っていく馬無しの馬車が牽く大きな檻には、哀れにも各地から攫われてきた人々が、絶望と恐怖に塗れた表情で詰め込まれている。
「…………」
被験体。
彼等はこの研究室の主である『先生』が求め集めさせて居るものであり、その種族は人間だけではなく、魔族や半魔、も含まれるのだ。
加えて、老若男女を問う事無く収集された彼等は、一度この中へと運び込まれてしまえば、よほどの例外が起きない限りは、二度と外へ出る事は叶わない。
「君。今ここに入っていったのは――」
「――あァ? 下がれッ! この場を何処と弁えているッ!! 誉れ高きネルードの兵といえど、至高の英知の集積地たる研究所においそれと近付くなど、到底許される事ではないぞッ!!」
「…………」
馬車を追い、悠然と歩を進めたアイシュは門を守護する警備兵の一人へと声を掛けるが、皆まで言い切るまでも無く、剣呑な言葉と共に槍の穂先が突き付けられた。
ぐにゃりと僅かに拉げ、うっすらと紫色を帯びた槍の穂先。
武器にあるまじき形状をしているものの、兵士が振りかざすそれは低級なものではあるが、アイシュ自身が腰に佩く呪法刀の一種で。
だが、通常の武具を遥かに凌ぐ強さを持つ槍を眼前に突き付けられて尚、アイシュはピクリと眉を跳ねさせる事すらなく、平然と警備兵を見据えていた。
「……今、ここへ入っていった荷の認証番号は幾つですか?」
「この声……お前、女か……? ハッ……まあ良い。どうやら俺の警告が聞こえなかったようだな。反逆罪で捕らえられたくなければさっさと立ち去れィ!!」
「やれやれ……貴方、新人ですか? 全く……面倒事は御免なのですがね……」
「ッ……!! 貴様……!! 俺は栄えある研究警備隊第三大隊所属、ゾルゲス少佐であるぞ! 一般兵士如きが、舐めた口を利くとはいい度胸だ!!」
淡々と問いを繰り返すも、槍を携えた警備兵はアイシュを蔑んだような目で見下しながら、野太い声で威圧を繰り返す。
けれど、その態度も無理は無いもので。
ネルード軍の中でも特殊な立場に在るアイシュの軍服には、正規の階級章が付けられてはいない。
対するゾルゲスと名乗った警備兵の首元には、彼自身が誇らし気に宣った通り、少佐である事を示す真新しい階級章が結わえ付けられている。
本来ならば少佐という階級は、中隊規模の部隊長を任ぜられる立場であり、まかり間違っても歩哨に立つ事などあり得ない役職だ。
だが、この研究室を守護する警備隊だけは話が別で。
特別腕が立ち、かつ呪法刀に適合した彼等は、最低でも大尉以上の者のみが所属を許される、ネルードの有する部隊の中でもいっとう優秀な者達の集まりなのだ。
「貴方が優秀な兵士であることはわかりました。ですが悪いことは言わないですから、警備隊長に連絡しなさい」
「くどい!! 元より貴様如き一般兵の立ち入れる場所ではないが、この研究室は今朝がたから厳戒態勢。我々警備兵でも内へ入る事はならんのだ!」
「フム……?」
アイシュは半ば呆れながらも、眼前の兵士に柔らかく告げてやるが、眼前へと突き付けられた槍の穂先が動く事は無く、雷鳴の如き怒声が返される。
それは、アイシュでさえ聞かされていなかった事で。
恐らくは機密情報に類する事を口走った警備兵を前に、アイシュは静かに整った眉を片方静かに吊り上げた。
どんな事情があるとはいえ、今のアイシュには少しばかり急がなくてはならない用ができてしまったのだ。
同じ国に属する兵である彼に刃を向けるのは忍びないが、こうも話が通じないのならば力で押し通るも止む無しか。
そう判断したアイシュが、するりと腰の剣へ手を伸ばしかけた時。
「お前等ァ! さっきから何を揉めて……って……アイシュ様ッ!? 馬鹿野郎お前ッ! このお方が誰だと思っているんだ!!!」
「なっ……? へ……? 隊長!? あだッ……!!」
異変に気付いた一人の兵が足早に二人の元までやってくると、アイシュの姿を見止めるや否や声を裏返らせて跳び上がり、困惑するゾルゲスの頭を拳で殴りつけた。
「アイシュ様! 申し訳御座いません! コイツは先日着任したばかりの新入りでして!! どうぞ、お通り下さい!!」
「ありがとうございます。ですがその前に、さっき通った荷物の認証番号を」
「へぇ……? またですか!? あんまり抜くと私らが先生に叱られちまうんですよ……」
「抗弁は不要です。先生から許可は頂いていますので。それよりも急いでください。処置室に運び込まれる前に捕まえたい」
そして、がばりと頭を下げて門を指し示すも、アイシュは先ほどゾルゲスに発したのと同じ問いを警備隊長へと投げかける。
つまみ食い。警備兵の中で密かにそう呼ばれているアイシュの行為は、それなりに有名で。
アイシュの有する強権を以て行われる。
つまるところ、研究材料として運び込まれた者達の中に、アイシュのお眼鏡に適う者が居た時。
そのものは幸か不幸か、アイシュの愛玩奴隷としてではあるものの、生きて再びこの研究所から外へ出る事ができるのだ。
「あぁ……っ……わかりましたよ! お前!! 後で覚悟しておけよッ!!」
そんなアイシュは、淡々と警備隊長に指示を出すと、目を輝かせながら颯爽と門へ向けて駆け出して行く。
その背を追って走り出した警備隊長は、ふと思い出したかのようにその場に唖然と立ち尽くすゾルゲスを振り返ると、八つ当たりのような叱責を残して、門の内へと去っていったのだった。




