1962話 氷の矜持と熱き激情
理想と現実の乖離に軋み、慟哭をあげていた心で、フリーディアは静かに決意をする。
瞬間。
胸の内を蝕んでいた罪悪感と止めどなく押し寄せる後悔は薄れ、僅かに思考が澄み渡っていく。
「そう。駄目なのよ」
「…………」
自身の言葉を復唱しながら、フリーディアは湖の向こうへと彷徨わせていた視線を、傍らのロロニアへと向けると、何処か無機質な声で言葉を続ける。
しかし、その瞳に溢れていた輝かんばかりの光は今や陰り、冷たさと鋭さを帯びていた。
「テミスをこの戦いに巻き込んだのは私。ロロニア。それは貴方も同じよ。これ以上重荷を背負わせることはできないわ」
「……アンタに巻き込まれた覚えはねぇよ。何処ぞの滅茶苦茶をやってくれる大剣使いに巻き込まれた覚えはあるがな」
「仮とはいえ、今のテミスは白翼騎士団に籍を置いている身だもの。旗下の者の責は私の責よ」
「ご立派な心掛けだ。だが、そういう配慮はアンタの本当の旗下の連中にこそしてやんな」
「本当も嘘も無い。テミスも……他の皆も、私にはしっかりと守る義務がある」
「義務ねぇ……俺がアイツなら、そんなもん欲しかねぇけどな」
揺れない心できっぱりと断言するフリーディアに、ロロニアは深く長い溜息を漏らした後、肩を竦めて飄々と言い放つ。
その姿には、精鋭揃いの湖族を束ねる頭としての威厳も、フリーディア達に助太刀をしている友軍の将としての気負いもなく、ただ一人の明るく凛々しい男のものだった。
「俺も、きっとアイツも、アンタにゃ好きで手ぇ貸してんだ。義務だなんだと、アンタの重荷になる気はさらさらねぇよ」
「手を貸して貰っているのは事実だもの。返すべき責務が発生するのは当然の事だわ?」
「はぁ~……っ! 思っちゃいたが、んっ……とに頭かてぇなぁ……アンタ。そもそも、ロンヴァルディアが攻められてんだ。ロンヴァルディアが負けりゃ、俺達だってどうなるかなんざわかりゃしねぇ。知らぬ存ぜぬなんざ決め込めるかよ」
「その為に……脅威を退ける為にあなたたちの力を借りているわ。情けない話だけれどね」
「っ~~~!!! あ~もう! 面倒臭せぇなぁッ!!!」
「っ……!!」
ロロニアは自らの想いを伝えるべく、言葉を選びながら語り聞かせるも、その真意が伝わる事はなく、フリーディアは淡々とした調子で言葉を返し続ける。
その澄ました態度に、ロロニアは何かを堪えるように持ち上げた右手でガリガリと乱暴に前髪を掻くと、苛立ちの籠った叫びと共にフリーディアの両肩を掴み、覗き込むようにしてフリーディアの瞳を真正面から鋭く見据えた。
無論。
剣士として相応の実力を持つフリーディアでれば、ロロニアの動きを躱す事も、防ぐ事も容易いものではあった。
けれど、自らへと向けられてその動きには、殺意は元より一片たりとも害意は込められておらず、フリーディアは僅かにピクリと肩を跳ねさせたものの、抗う事無くロロニアの目を見返すに留める。
「アンタは一体、俺やアイツの手を借りて何をやりてぇんだ!!」
「決まっているわ。ロンヴァルディアを守るのよ。ヴェネルティの侵略からね」
「だったら余計な事考えてんじゃねぇ!! 俺もアイツも、アンタに守ってもらわなきゃなんねぇほど弱かねぇんだよ! 苦しいならもっと頼れ! アンタは何でもかんでも一人で解決できちまうのか? 違げぇだろ!? だから、アイツはアンタに何も言わずに動いたんだ!!」
「それ……は……」
「指揮官としての立場があるのはわかる。でもよ、だからアイツが……俺が居るんだろうが!? アイツも最初っから自分一人で動き過ぎだけどよ。俺からすりゃあアンタも同じようなもんだぜ? こうやって後からウジウジと後悔するくれぇなら、サッサとこっちに話し持ってくりゃ良いだろうが!」
言葉を重ねる度に、ロロニアは自らの腹の底に溜まっていた激情が燃え上がるのを感じると、自制を振り切って怒鳴り声をあげた。
それほどまでに、傍らから見たフリーディアとテミスの在り方はもどかしく、歪に映っていた。
互いに十分以上に信頼し合っている癖に、決して自ら助けを求める事はせず。
互いの企みを見通す事ができるほど肩を並べている癖に、それぞれが自分の決めつけた相手を補い合っている。
酷く婉曲で回りくどく、今でこそ奇跡的に噛み合ってこそいるものの、それは一歩間違えればたちまち食い違って瓦解する、薄氷の如き脆さを伴っていた。
「アンタ、その調子じゃアイツに礼の一つも言ってねぇだろ?」
「えっ……? ……えぇ。そう……ね……」
「アイツが俺なら、手前ェで勝手に食らった怪我に負い目を感じられるより、自分の手の届かねぇ所手伝ってやった事の礼を言われた方がずっと嬉しいけどな」
「…………」
一通り怒鳴り終えると、ロロニアはフリーディアの肩を掴んでいた手を静かに話すと、ゆっくりと持ち上げたその手を後頭部で組み、軽い調子で言い放った。
その言葉は、フリーディアにとっては思わず呆気に取られてしまうほど意外な視点で。
フリーディアは驚きに大きく見開いた眼をパチパチと瞬かせたあと、クスリと小さく口角を持ち上げる。
「言われてみれば、それもそうかもしれないわね。ありがとう。考えてみます」
「オウ。好き勝手に色々言って悪かったな。だが、今日は折角の宴なんだ。考え事はほどほどにして、早めに戻ってきてくれよ」
そんなフリーディアに、ロロニアはニカリと明るい笑みを浮かべてそう告げた後、身を翻して足早に船内へと戻っていったのだった。




