183話 長の心子臣知らず、臣の心長知らず
数日後。
テミスは満天の星の下、町を囲う外壁の上で一人佇んでいた。その傍らには、愛剣とも言える黒い大剣が立てかけられており、その服装もいつもの軍服や甲冑ではなく、町の衛兵が着用しているような軽鎧を身に着けていた。
「ふぅ……コーヒーでも持ってくればよかったか……」
テミスは月明かりに照らされた街道の向こうに目を走らせながら、小さくため息を吐く。あの宣言から数日……暇で余裕のあったテミスの日常は一転、次々と上がってくる書類を捌く激務の日々と化していた。
「まぁそれでも……」
一言呟いてから、テミスは柔らかい笑みを浮かべて背後の街の明かりを眺める。奴等を少しでも労う事ができたのならば幸いだ。それに、今回大規模な休息期間を設けた事で、もう一つの問題点も浮かびあがってきた。
「やはり、人員補充は必須……しかし、配分をどうするか……」
テミスは再び町の外へと目を向けると、頭の中で部隊の改善案を練っていく。
十三軍団は現在、このファントの町の防衛を任としている。無論、他の軍団よりも数が少ない分、様々な制度を作り上げて補完はしていた。しかし、あくまでもそれは補完に過ぎず、遊兵を極力作らないその制度では、今回のような大規模休暇を与える事ができないのだ。
「フム……」
故に、部隊を半分に別けて休息を取らせる事にしたのだが、これも急場しのぎの苦肉の策に過ぎない。だからこそ、現に手の回り切らない箇所にこうして私が出張ってきているのだ。
「夜勤はこの世界に来てから初めてだが……久々だと中々に堪えるものがあるな……」
そうひとりごちてから、テミスは大きく伸びをすると、再び月明かりの街道へと視線を向ける。
今までも、夜通し戦闘をしたり、夜の闇に紛れて作戦行動をした事はあるが、それとこれでは話が別だ。逼迫した状況下での作戦行動では眠気を感じる暇なんて無いし、目まぐるしく変化していく状況に食らい付いて行かなければならない。だが一方で、衛兵の夜勤の仕事と言うのは、こうして何も異常が無い事を確かめるための仕事。状況が変化しない事が通常であり、目的なのだ。だが……だからこそ……。
「暇だ……」
テミスは思考を切り上げると、懐から小さなナイフを取り出して弄び始める。
これも、倉庫から軽鎧を引っ張り出して来た時に見つけたものだが、戦闘の他にも、手慰みの玩具程度には役に立つ。
本来、衛兵の仕事は二人一組で行うため、こうした暇な時間など生じる筈も無いのだが、何せ人員が不足しているのだ。一人の戦力で事足りる箇所に余分に兵を配置する余裕など無いし、そもそも私とペアになった兵が可哀そう過ぎる。自らにその気がないとしても、上司との二人きりの時間が緊張する事くらいは私にもわかる。
だからこそ、こうして一人で防衛の任に就いている訳だが……。
「んっ……?」
暇を持て余したテミスが、素振りでもして眠気を晴らそうかと大剣に手を伸ばした時だった。
カツカツという足音が壁の上に登る為に設えられている、階段の方から響いてくる。
「なんだ……? 交代の時間はまだまだ先のはずだが……」
来るはずの無い来訪者に首を傾げながら、テミスの手が大剣の柄を音も無く掴んだ。よもや、外敵が既に町へ入り込んでいた……等と言う事は無いだろうが、その可能性も視野に入れておいて損は無いだろう。
「テ・ミ・ス……様ッ! 調子はいかがですかっ?」
「なっ……サ……サキュドッ? お前は休暇中のはずだろう?」
しかし、上機嫌な声とともに姿を現したのは、その顔に笑みを湛えたサキュドだった。
「にひひ~……テミス様、暇すぎて寝てないかなぁ~って……マグヌスが」
「……自らの罪を人に被せるのはやめないか。テミス様、任務中に失礼いたします」
「マグヌス……お前まで……」
更に、その後ろから姿を現したマグヌスが、眉をひそめてサキュドに苦言を呈する。先の戦いだけでなく、このカズトの撃退時にも私に随伴していた彼等には、優先的に休みを与えた筈なのだが……。
「んっふっふ~。テミス様ってば、水臭いんですから! はいっ、コレ!」
「っ!」
そう言うと、サキュドはマグヌスの手からバスケットを取り上げると、蓋を開けてテミスへと差し出した。その中には、見覚えのあるサンドイッチがぎっしりと詰め込まれていた。
「アリーシャに頼んで作って貰っちゃいました! ……と言えたら良かったんですが、頼みに行ったらテミス様の分はもう出来てまして……」
「夜間にアリーシャ殿を出歩かせるのはテミス様にご心配をおかけすると思い、我々が運搬を承った次第であります」
「そしたら、私達の分も追加で作ってくれちゃったんですよね……」
交互に理由を告げながら、マグヌスはテミスに笑顔を向けて言葉を続ける。
「無論。テミス様がお望みであろう、こちらもご用意してあります」
「っ……! お前達……」
マグヌスが、抱えていたもう一つのバスケットを開いて見せると、中にはいつもテミスの使っているティーセットが入っており、更には仄かに鼻をくすぐるコーヒーの香りが漂ってきた。
「……いや、好意はありがたいのだが……すまない。受け取る事はできんな」
一瞬。テミスは部下たちの持つ差し入れに心を奪われかけるも、鋼の理性で心を律し、ゆっくりと首を振った。しかしその視線は、名残惜し気にマグヌスの持つバスケットにチラチラと走ってはいたが。
「マグヌスの言った通り、私は今防衛任務中なのだ。それに、この任には他の連中もあたっている。軍団長である私が、好意とは言え身勝手に休息をとるわけにはいかん」
テミスはそう言い切ると、未練を断ち切るように視線をバスケットから引き剥がし、暗い街道へと固定する。
そうだ。私は軍団長という地位にある。軍団の頂点にある私が仕事をサボれば、それは後々になって、取り返しのつかない致命傷となって返ってくるだろう。なればこそ、隊の規律を守るためにも、ここでこの誘惑に屈する訳にはいかないのだ。
「やれやれ……テミス様ってばカタいんですから……。二人で就くはずの任務を一人でこなしてる時点で、少しくらい休息をとっても良いとは思いますけどね……」
「……悪いな。隊の士気にも関わる事だ」
「はぁ……そこがテミス様の良い所でもあるんですけどねぇ……マグヌス?」
「ウム。任された」
サキュドがため息と共に一歩下がると、今度は傍らのマグヌスが頷いて進み出て来る。
「なんだ? お前ならばわかるだろう? 地位には相応の責が伴う。私が規範を守らなければ、部隊の規律そのものが瓦解しかねん」
「ええ。十分に理解しております。ですから、今頃何かしらの差し入れが各班へと届いている筈です」
「な……に……?」
マグヌスは得意気に頬を緩めてそう告げると、良い香りの漂うバスケットを再びテミスへと差し出しながら言葉を続ける。
「我々、先行休養組からの礼……と言いますか、我ら部隊全員の総意であります。休暇はありがたく頂戴いたしますが、御身がご無理をされては休むに休めません」
「そー言う事。テミス様が断りそうな理由はぜんぶ潰しちゃってるから、逃げ道はありませんよ?」
「っ……ふ……ふ……」
再び交互に繰り出される部下たちの言葉を聞きながら、テミスは胸の内がじんわりと温かくなるのを感じて彼等から顔を背ける。まさに今、私が感じている感情こそが喜びであり、感動なのだろう。ならば、この緩んだ顔を奴等に見られるのは気恥ずかしいものがある。
「ハァ……解ったよ。ありがたくいただくとしよう……感謝するぞ? マグヌス、サキュド」
そう言うと、照れ笑いを不敵な笑みで塗り潰しながら、テミスは彼らの差し出すバスケットへと手を伸ばしたのだった。
2020/11/23 誤字修正しました




