1953話 勇者の助太刀
明滅するテミスの視界の端に、長い黒髪が翻る。
しかし、濃霧の如く霞む意識の中では、必死で回転させていた筈の思考すら動きを止め、どこか暖かさすら感じる揺蕩いに浮かんでいた。
ぼんやりとしていた意識。何者かが眼前で踏み鳴らした足音も遠く、身体の芯まで疲れ果てた虚脱感は、テミスに自分が今何をしていたかすら忘れさせた。
「っ……!? ハッ……!!」
だが。
強烈に己が体が加速した感覚に、テミスは半ば強制っ的に意識を現実へと引き戻されると、ビクリと僅かに身体を震わせた。
「あっ! よかったぁ……起きた? 遅くなってゴメンね! でももう大丈夫! 助けに来たよ!」
「…………?」
意識を取り戻したテミスに応えるかのように真横から響いたのは、何処かで聞いた覚えのある快活な声。
そしてわずかに遅れて身体の感覚が戻ってくると、テミスは自らが声の主に抱えられているのだと自覚した。
しかし、聞き覚えはあるもののそれが誰かまでは思い出す事ができないが、テミスは身を起こそうと体に力を込めてもその視界が動く事は無く、ぐったりと抱えられたままだった。
「危なかったぁ……ギリッギリ間に合って良かった! さぁ! ここからはボクが相手だよ!!」
「ぅ……」
言葉と共に体が揺さぶられると、テミスの視界がゆらりと動き、見覚えのある剣が構えられる。
たしかこの剣は、サキュドに命じて囚われているはずのユウキへと届けさせたはず。
……と、いうことは。
「お前……ユウキ……か……。何故……ここ……へ……」
「何故って……! 助けに来たんだよ! 空を飛んでいく斬撃を見たフリーディアさんが、キミが戦っているって言うから!」
「……! あぁ……」
そうか。と。
掠れた声で得心を口にすると、テミスはゆったりと動き始めた思考を巡らせた。
話から推察するに、おそらくフリーディアはアイシュとの戦いの中で弾かれた月光斬のどれかを見付けたのだろう。
どれくらいの間意識を失っていたのかはわからないが、決着の一撃を見てから駆け付けたのではあまりにも早過ぎる。
そういう意味では、出し惜しんだせいで追い込まれたとはいえ、あの切り結んだ時間は決して無駄ではなかったという訳だ。
「影に気を付けろ。あとは足元。甲板を抜いて来るぞ」
「わかった! でも、大丈夫だと思う。さっきは何かしようとしていたみたいだけれど、向こうももう限界みたい」
「……?」
自分が意識を失っていたというころは、つまり軍配はアイシュにあがったのだろう。
そう判断したテミスは、僅かに鋭さを取り戻した口調でユウキに忠告をするが、ユウキは剣こそ構えはしているものの、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「久し振り……でいいよね? どうする? まだ戦いを続ける?」
「……やれやれ。参りましたね。ここにきて援軍とは。ですが……貴女はヴェネトレアの所属では?」
「う~ん……どうなんだろう? 正直その辺りは分からないんだよねぇ……」
「なら、共に我がネルードへ来ませんか? 勇者ユウキ。私たちが敵対する理由は無い筈です」
「ううん。それはできない」
剣を構えたままアイシュへと語り掛けたユウキは、感情豊かな声でアイシュの問いに答えるも、告げられた勧誘の言葉を即座に切って捨てる。
ユウキに抱えられているだけしかできないテミスとしては、これ以上ない程に喜ばしい展開ではあったものの、呪法刀の剣があるとはいえユウキは元々ヴェネルティ側の所属。そう考えればアイシュの主張に理があるのは間違い無い筈なのだが……。
「その剣……その力は皆を不幸にする。あの時はできなかったけれど、今ならキミたちを止められる」
「……残念です」
「退くのなら止めないよ。キミの力は油断できないし、そもそもボクはキミと戦いに来た訳じゃないからね」
「では……お言葉に甘えさせていただきましょうか……」
構えを解かないままユウキが告げると、アイシュはクスリと不敵な微笑みを浮かべて、握り締めていた闇色の剣を甲板へと突き立てる。
その言葉を正しく受け取るのならば、アイシュはこの場から退こうとしている訳だが……。
「ッ……! 待……て……!!」
「っ……?」
「この借りは……必ず返すぞ……!!」
「……! ふふ……」
それを察したテミスは、ユウキに抱えられたまま無理矢理状態を起こすと、這いつくばった格好で甲板に剣を突き立てているアイシュを睨み付けて言葉を振り絞った。
何をどう解釈したところで、負け惜しみでしか無い言葉。
だが、そんな台詞を叩き付けられずには居られない程、テミスの胸中は敗北の悔しさに塗れていた。
一方で、それを聞いたアイシュはクスリと頬を歪めて笑うと、一拍の間を置いてから静かに口を開く。
「なら、お名前をお聞きしても? そういえば、まだお名前を窺っておりませんでしたので」
「ッ……!!!! チッ……!! テミスだ」
告げられたのはテミスにとって、これ以上ない程に屈辱的な問いで。
しかし勝負に敗北した上に、問われた名乗りすら拒んだとあれば恥の上塗りも同然。
だからこそ、テミスは屈辱にギシリと辛く歯を食いしばった後、ぶっきらぼうに殺意と憎しみを込めて名乗りあげた。
「テミス……。ふふ……テミスさん……ですか。覚えておきますよ。私も、貴女に返さなければならない借りができてしまいましたので。真の決着はいずれその時にでも」
そんなテミスに、アイシュは歪んだ笑顔のまま噛み締めるようにテミスの名を呟いた後、
不敵な声色で言葉を残すと、沸き上がった影の中へ沈んで姿を消したのだった。




