1952話 潰えぬ執念
「ぅ……は……ハハ……」
傍らを駆け抜けていった暴風が完全に過ぎ去り、戦場に穏やかな潮騒の音だけが漂い始めた頃。
恐怖と緊張で固まった喉が漸く弛緩したアイシュは、引き攣った笑みを浮かべながらその場にべしゃりと腰を下ろした。
「私……生きてる……腕もきちんと……付いていますね……」
ぺたぺたと己が身を触りながら安堵の声を漏らすアイシュの傍らには、甲板を深々と切り裂いた凄まじい斬撃の跡が刻まれており、テミスの放った月光斬がすぐ傍らを通り抜けていった事を物語っていた。
「……なんという威力。正直、死んだと思いましたよ。もう戦える力は残っていません。降参です。見てください。ホラ。腰、抜けちゃってます」
「…………」
座り込んだまま動けない自分を笑いながらも、アイシュは未だ自分が生きている事に心の底から感謝をしながら、震える声で眼前に立つテミスへと語り掛ける。
事実。今のアイシュには腰を抜かしてしまっていなかったとしても、戦闘を継続できる程の力は残ってなどいなかった。
だからこそ、素直に敗北を認めて、勝者であるテミスを称えたのだが、いくら待ってもテミスは口を噤んだまま動かない。
「えぇっと……。無視されるのは流石に傷付くんですが……。ここは、互いに健闘を称え合うとか……そういう場面ではないですかね?」
「…………」
「あの……?」
「っ……」
答えを返す者が居ない沈黙の中。
目尻にうっすらと涙を浮かべたアイシュが懸命さすら滲ませながら、ひたすらテミスへ語り掛けていた時だった。
突如。
ぐらり……。と。
大剣を振り抜いた格好のまま仁王立ちしていたテミスの状態がグラリと大きく傾ぎ、ドサリと鈍い音を立てて甲板の上へと倒れ伏す。
「なっ……!?」
これに驚愕したのは他ならぬアイシュの方だった。
絶句したアイシュは、未だ立ち上がれない身のまま呆然と倒れ伏したテミスを見据えると、ポカンと口を開けた表情のまま事態を理解し始める。
そう。アイシュが一撃を凌ぐために全霊を懸けたように。
テミスもまた、勝負を決める一撃として選んだ月光斬に全力を賭していたのだ。
結果。アイシュは膝を付き、テミスは倒れ伏している。
もしもこの場に審判が居て、どちらが勝者であるのかと問われれば、意識を保っているアイシュに軍配が上がるのだろう。
だが……。
「こんな一撃を見せられて、勝ち誇る気にはなれませんね。降参を口にしてしまったのも確かです」
アイシュは傍らに刻まれた斬撃の後へチラリと視線を向けると、皮肉気な微笑みを浮かべて肩を竦めた。
確かにアイシュは死んではいない。
けれど、自身の身を守るべく展開した最強の防御障壁は容易く食い破られ、ほんの僅かに軌道を逸らす事が叶ったに過ぎなかった。
たとえ万全の状態であっても、アイシュの持ち得る守りでは、この一撃を防ぎ切ることは不可能だ。
「です……がっ……!! これからの事ならば、話は別……ですッ……!!」
潔く己の負けを認めた後、アイシュは天を仰いで大きく息を吸い込んでから、腰の抜けた身体のまま甲板の上に這いつくばって、ズルリズルリとテミスへ這い寄っていく。
「勝負には負けましたが、私はまだこうして意識を保っている!! ですから……せめてッ……!!」
爛々と執念に目を輝かせて、アイシュはガチャリ、ガチャリと闇色の剣を打ち鳴らしながら、少しづつ、しかし着実にテミスへにじり寄った。
もう、アイシュにはテミスを害する気など欠片も無い。叛逆に対する罰も不問で構わない。嫌だというのならば、上に対する言い訳も何とかしよう。
けれど、身柄だけは連れ帰る。
このまま滅びゆくロンヴァルディアに帰してしまえば、彼女がどんな酷い目に遭うかなど容易く想像できる。
そんな事は許さない。これほどまでに気高く、強く、美しい人間の命が、こんなくだらない所で潰えてしまうなんて、アイシュには断じて許す事ができなかった。
「恨んでくれて構いませんよ……!! 文句は後で幾らでもお聞きしますッ……!! それでも……!!」
ただテミスを護りたい。
アイシュはただその一心で疲れ果てた身体を無理矢理動かし、必死の形相で意識を失ったテミスへと手を伸ばした。
だが、その伸ばした掌がテミス腕へと触れる直前。
「……ぇぇぇぇぇぇえええええええヤァァァァァッッ!!」
猛々しい雄叫びと共に、青い燐光を纏った剣を振りかざしながら、スタリと甲板の上へと降り立ったのだった。




