1951話 闇と月
チリチリと迸る気迫が空気を灼き、白銀の剣閃が宙を薙ぐ。
月光斬。
この世界とは別の世界にて創られた物語の中に描かれた、三日月を思わせる形の巨大な斬撃を飛ばす技。
テミスはただそれを模倣したに過ぎず、この技に込められた想いも、生み出された仮定すら知る由もない。
そういった意味では、真の月光斬たるこの技もまた、紛い物と呼ぶべきなのだろう。
だがその絶大な威力は鋼鉄をも易々と裂き、これまで数多の猛者を蹂躙してきた必殺の一撃だった。
「クぅッ……!! オオォォォォォッ……!!!」
対するアイシュは放たれた月光斬を迎え撃つべく、雄叫びをあげてその闇色の剣を以て複雑に宙を薙いだ後、逆手に持ち替えて地面へと突き刺した。
瞬間。
半円状の漆黒が甲板の下から漏れ出しはじめ、瞬く間にアイシュと月光斬の間に壁となって現出する。
その数は二十一枚。
月光斬が迫る直前でアイシュが剣で宙を薙いだ回数であり、今の状況でアイシュが繰り出すことの出来る最強の守りだった。
最前に位置する闇の壁だ形成された直後、刹那の暇すらなく月光斬がアイシュの守りへと至る。
「っ……!!」
パリィィンッ……! と。
最初の五枚は薄氷を破るかのごとく瞬く間に砕け散り、白銀の斬撃の足を留める事すら叶わなかった。
僅かに堪えたのは六枚目から。
とはいえそれも数秒と持たずに次々と食い破られ、二十一あったアイシュの守りを一瞬にしてその数を半減させた。
「これが……全力ッ……!!?」
十一枚目。
ここまで来て初めて、アイシュを守る闇の壁は斬撃に接触した瞬間にヒビこそ入るものの、即座に砕け散る事は無くはじめて月光斬の足を僅かに留める。
その桁違いの威力にアイシュは思わず目を見開いて息を呑むも、思考が次へと移り変わる前に、更に一つ守りが砕けた。
「はは……まさかこれ程とは」
バリンバリンバリンッ……!!! と。
最初の轟然たる勢いこそ削がれたものの、それでも尚止まる事の無い月光斬を目前に、アイシュはへらりと力無い笑いを漏らす。
2秒、3秒、5秒、7秒……。一枚当たりの障壁が稼ぐ時間こそ増えたものの、月光斬の威力はなお健在。
けれど、既にアイシュの前に残る壁はたったの三枚。
順当な思考を持つ者であれば、この残った三枚の防壁で月光斬を防ぎ切る事が困難である事など、思考するまでも無く理解できるだろう。
アイシュもまたその事実は正しく理解しており、瞬く間に脳裏に浮かんだもう一つの選択肢……即ち今すぐに甲板へと突き立てた剣を抜き放ち、全力全霊を以て横へ跳び逃れる。
剣から流し込まれる力の供給が途絶えた瞬間、防壁は即座に強度を失い、壁としての機能を失うだろう。
それから跳び逃れたとて、間に合うかは五分と五分……否、勝算はもっと低いかもしれない。
だが、このまま抗い続け、数秒間の生を賭して得られる見返りとしては破格の条件といえる。
しかし……。
「無粋……いえ、ここで逃げ出す訳にはいきませんね……!!!」
理性に従ってピクリと動きかけた身体を、アイシュは衝動を以て抑え込むと、クスリと不敵な笑みを漏らして一言力強く嘯いた。
そうしている間にも更に一枚、アイシュを守護する防壁が砕け散るが、もはやそこに驚きも恐怖も無く、血が沸き滾るような激情だけがアイシュの心を支配していた。
「ぉ……ォォォォォオオオオオオッ……!!!」
咆哮をあげ、アイシュは残る防壁へと全身全霊を注ぎ込む。
負けられない。……負けたくない。
激突する斬撃が雑念を払い落していくかの如く、アイシュは力を注ぎ込むたびに自らの胸の内で燃え盛る漠然とした想いが、しっかりとした形を帯びていくのを感じていた。
彼女には何の恨みも無い。
むしろ、ひと目見た瞬間に心奪われたその美しい容姿や、猛々しく振るわれる途方もない力には尊敬の念すら抱いている。
だからこそ嬉しかった。
彼女がこの船を訪れてくれて。本当にあの破滅へと向かう国から逃れると言ってくれたことが。
救い出せる。側に居る事ができる。愛で続けられる。
力無き者は奪われ続ける事しかできないこの世界の中で、アイシュは奪った者たちに愛を与え続けてきた。
世界の摂理に逆らうことなどできない。何故なられに抗えば、アイシュより強い者達などごまんと居るから。
ならば奪い取った者を愛そう。世界の摂理に則って奪い取った分だけ……否、それ以上に。
弱くも儚き美しい者達を庇護し、慈しみ、与え、育み、そして愛でる。
それが力を得たアイシュの、世界に対するささやかな叛逆だった。
「……ッ!!!!」
次第に咆哮は音を失い、魂だけが絶叫する。
だがそれも虚しく、残った二枚の防壁のうち一枚が澄んだ音を立てて砕け散った。
もはや思考をする余裕などアイシュには残されてはおらず、心の最後の一滴までを絞り尽くし、奮い立たせていた。
「……ぁ」
そして、時間の感覚など置き去りにした攻防の果て。
アイシュが潰れた喉で掠れる声を漏らした瞬間。
ひと際甲高く防壁が砕け散る音が響き渡ると共に、烈風を纏った巨大な月光が迸ったのだった。




