182話 平穏無事で理想の生活
「……平和だな…………」
昼過ぎ。執務室へと出勤したテミスは、湯気の立つコーヒーを片手にぽつりと呟いた。
上がってくる書類からも大した問題は起こっていないし、町は平和そのもの。まさに理想的な光景だった。
「……しいて言うなら、コレくらいか」
テミスは机の端に避けてあった、一際上質な紙を手に取ると、そのままべしゃりと机に頬をつけて唸りを上げる。これは、先日ドロシーに勝利した時の『報酬』だ。つまりは、別の部隊から十三軍団へと引き抜く人材を選び、その選んだ者をギルティアへと報せる為の書類……。
「まぁ……別にすぐでなくても構うまい……」
そもそも、十三軍団の増員はこちらの要請だ。流石に話が立ち消えるまで引き延ばすつもりは無いが、少しばかり寝かせておいても、支払う側である魔王軍から文句など出ないだろう。
あとは新たに任地となったプルガルドだが……。
「ケンシンの奴が攻めて来ないのは解り切っている事だしな……。こっちも後回しで良いだろう……」
編成が完了するまでの間は、リョースの第三軍団が防衛にあたる手はずになっている。戦力が分散する連中が無闇にテプローを攻めるとは思えない。
「嗚呼……平和だ……」
テミスは久々にゆったりとした時間が流れるのを感じながら、至福の時間を貪った。戦火を離れ、愚劣な連中を廃し、辿り着いた場所……。嫌味な上司も居らず、少ない書類仕事をのんびりと片付けるだけの日々……。
「はぁっ……軍団長……万歳ッ……!」
今度は椅子に体を預け、反り返ったテミスは言葉通り両手を投げ出しながら逆さまの町を見下ろした。
そこには、相も変わらず人々で賑わう街道と、その人々に向かって声を張り上げる商人たち……そして、その視界の端の中庭には、まるで商隊の休息地ように乱立していた天幕は無く、十三軍団の兵士たちが訓練に勤しんでいた。
「……フム」
それを見たテミスは顔を上げて息を吐くと、机のコーヒーカップを取り上げて思考する。
思えばこのファントを奪還してから、我々にまとまった休みは一度も無かった。
きちんと完全週休二日……あの世界のブラック企業が裸足で逃げ出す程度には、各々に通常の休息日は与えてはいる。しかし、ヒトが営みを形成する上では、ある程度の期間、仕事を離れてじっくりと療養を取る時間も必要だろう。戦場で心と体をすり減らした兵士であるのならば猶更だ。
「……よしっ!」
テミスは一つ頷くと、コーヒーカップを一気に煽って中身を飲み干し、バタバタと足音を立てて執務室を後にした。
「おい! マグヌスッ! 今すぐ部隊の者全員を集めろ!」
「はっ……? テミス様……? っ――!? 緊急事態ですか!?」
数分後。中庭へと降りたテミスが、兵士達と共に訓練をしていたマグヌスに声をかけると、その場の空気に一瞬で緊張が走る。
「良いから、全員集合だ!」
「っ! 了解しました! お前達は一度戻り装備を整えて来い!」
「ハッ!」
「いや待て。そのままで良い。動くな」
「えっ……? は、はぁ……」
マグヌスがそう一喝し、一斉に頷いた兵士たちの背をテミスが呼び止める。間一髪、駆け出しかけた訓練中の兵士たちは首を傾げながらも立ち止まったが、一足先に駆けて行ったマグヌスは既にその姿を兵舎の中へと消していた。
――五分後。
「あ~……ハハ……」
テミスは、完全武装を整えた兵士たちの前で、気まずげに頬を引きつらせていた。
「テミス様ッ!? 状況は!? 第二軍団の残党ですかッ!? それとも、あの人間の部隊の生き残りが――ッ!」
爛々と目を輝かせたサキュドがテミスに飛び掛からんばかりに問いかけると、傍らのマグヌスが腕を伸ばしてその口を物理的に封じる。
「黙らんかサキュド。逸る気持ちは解る……しかし、テミス様のお言葉を邪魔するのは感心せん」
「っ……っ! っ……! ぶはっ!」
冷静に釘を刺したマグヌスの腕を、サキュドが頷きながらペチペチと叩くと、その筋肉質な腕の拘束が緩んで解放される。しかし、サキュドはいつものようにがなり立てる訳でもなく、真剣な顔でテミスの言葉を待っていた。
「……マグヌス?」
「ハッ……!」
「これは……どう言う事だ?」
「はっ……? テミス様が、至急皆を集めるように仰ったのでは……? 緊急事態だ……と」
半眼のテミスがマグヌスに確認を取ると、首を傾げたマグヌスが緊張の抜けない声で応える。
ああ……何と言うか……。マグヌスが訓練中の奴等に装備だ云々行った所で察するべきだったな……。訓練着の連中、武装を整えた奴等の中で浮いていて、逆に可哀そうになってきたぞ……。
「おい貴様等ッ! 私は装備を整えて来いと言ったはずだが……? 何をふざけているのだッ!?」
「はっ……! いえっ! テミス様にこのままで待機せよと命じられまして……」
「馬鹿なっ! テミス様の命を騙るなど……貴様ッ……覚悟はできているのだろうなッ!?」
「そ……そんなっ! 本当ですって!!」
間の悪い事に、そんな連中を目ざとく見つけたマグヌスが気炎を上げ、怒鳴られている連中がチラチラとこちらに助けを求める視線を送ってきていた。
「良い。マグヌス。連中の言い分は本当だ」
「なっ――!?」
いきり立つマグヌスをなだめるべく、テミスはその背を軽く叩きながら冷静に声をかける。そして、集合した部隊の面々の顔を一瞥すると、ニヤリと微笑んで見せてから声を張り上げる。
「諸君ッ! まずはその日々弛まぬ鋼の精神に、心からの賛辞を贈らせて貰おう」
「っ……!?」
「賛辞……?」
「緊急事態ではないのか……?」
テミスの声が響き渡ると同時に、部隊の中から小さなざわめきが走る。しかし、それをじろりと睨み付けたテミスの視線が通り過ぎると、再び部隊は静寂を取り戻した。
「このような形で招集をかけて心苦しく思うが、同時に……その諸君の姿を見て私は確信したッ!」
戸惑いの表情を隠しきれない兵士たちの前で、テミスは高らかに声を張り上げ続けた。
完全にアドリブで喋っているが、緊急事態と言って集めてしまった以上、何かしらの理由をつけるしかあるまい……。ドッキリでした~っ! なんて甘い言い訳が通じるほど、十三軍団は甘くないのだ。
「思えば……プルガルドにラズールと続き、ロンヴァルディアへの遠征……更には不埒者共の襲撃もあった。だが、その全てを我等は切り抜け、今日ここに立っている」
「っ……!」
テミスの言葉に部隊の兵士たちは力強く頷くと、姿勢を正して続きを待った。
「……あ~……それで……だな……」
しかし、当のテミスはぎこちなく動きを止めると、言葉を濁して視線を宙へと躍らせる。
――ふざけるなッ! 私は弁舌家じゃないんだッ! そんなにポンポンと都合のいい言葉が出てきてたまるかッ! 誰か原稿を寄越せっ!!
テミスは心の中で罵倒を終えると、小さく息を吐いて軍団の面々へと向き直り、その視線を一身に受け止めた。
「…………」
我が部隊ながら、見事な顔ぶれではないか。
テミスは黙って彼ら一人一人に視線を合わせると、頬を緩めてそう思った。
はじめこそ人魔のわだかまりがあったかもしれないが、今は共に激戦を生き延び、背中を預け合った信頼できる奴等だ。誇り高き、私の部下たちだ。
ならば、彼等の働きに恥じぬように、上司たる者の務めを果たさねばなるまい。
そう心の中で唱えると、テミスは一瞬だけ小さく目を瞑り、満面の笑みを浮かべて声を張り上げた。
「貴様等ッ! その働きを称えて長期休暇をくれてやるっ! 酒を飲むも良し、一日中寝てるも良し! 激戦続きで疲れ果てた心と体を存分に癒せッ!」
「………………おおおおおおおオオオぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!!!!」
テミスの叫びが中庭に響き渡った瞬間。数瞬の静寂の後、天を揺らすような歓声が中庭に響き渡ったのだった。
2020/11/23 誤字修正しました




