1934話 遥か見通す眼
ノルの報告を受けたフリーディア達の動きは、これ以上ない程に迅速だった。
報告のために天幕へと飛び込んできたノルを先行させ、驚き振り返る騎士達に総員集結の指示を飛ばしながら、軍港への道を一気に駆け抜ける。
しかし、小道を駆け抜けた先の軍港では、敵を確認したとは思えないほど穏やかな緩んだ空気が漂っていて。
「っ……!」
「ハッ……ハッ……!! こちらへッ!!」
「わかった!」
「ッ……!!」
僅かに違和感を感じたフリーディアは駆ける速度を緩めるが、共に駆けていたユナリアスは声をあげたノルの背を迷うことなく追いかけていく。
その背には、言葉にせずとも見て取れるほどに深い信頼が見て取れた。
――ユナリアス。貴女は私が信じるテミスの事を信じてくれている。なら私も、貴女が信じるその子を信じるわ。
胸を過った違和感を、フリーディアは小さく首を振って振り払うと、再び脚に力を込めて駆ける速度をあげて、ユナリアス達の後を追いかけた。
「っ……! はぁっ……! はぁッ……!! あれをッ……!!!」
「……?」
「んん……?」
そうしてノルが誘ったのは、島の湾を延長する形で設えられた防波堤の先端で。
湖へ向けて大きくせり出たこの場所では視界が開け、確かに遠くを見渡すには適している場所ではある。
けれど、見渡す限り広がるのは、キラキラと穏やかな波に陽光を照り返す湖面ばかりで。
フリーディアとユナリアスが危惧していたような物々しい艦隊など、一見して何処にも視認する事はできなかった。
「ノル。艦影は何処だい? すまないが、私の目では見当たらなくてね」
「…………」
「はい。あちらです。距離はかなりありますが、確認できるかと」
「うぅ……ん……? んん……?」
人気の無い場所へ誘い出された?
無警戒にノルの傍らへと近付き、穏やかな口調で問いかけるユナリアスを前に眺めながら、フリーディアの胸の内では振り払った疑心が再び鎌首をもたげる。
その証拠に、前へと歩み寄ったユナリアスとは対照的に、フリーディアは半身を引いて構えを取り、掌は既に音も無く腰の剣へと番えられていた。
もしもこの場にテミスが居たのなら。否、テミスが行方をくらましていなかったのなら。
フリーディアがユナリアスの腹心へ疑心を抱く事は無かっただろう。
しかしテミスの不在が明らかな今、フリーディアは自らの胸の内に在るテミスともいうべき思考が鳴らす警鐘に、迷う事無く身を預けていた。
だが、湖へ大きく身を乗り出して目を凝らすユナリアスの傍らで、ノルはその身体を支えてこそいるものの、欠片も危害を加える素振りを見せる事は無く。
フリーディアは強く吹き付ける風に長い髪を躍らせながら、湖の彼方へと目を凝らすユナリアスと、その身を献身的に支えるノルを鋭い視線で見据えていた。
「…………確かに、何か……遠くに黒い点のようなものが並んでいるね」
「っ……お判りいただけましたか。数や配置、方角から見ても、ヴェネルティの艦隊の可能性が非常に高いかと」
「フリーディア。君もこっちへ来て見てみて……ほら……あそこさ……目を凝らすと、微かに艦隊のようなものが見えるんだ」
「…………。えぇ」
湖の向こうへと目を凝らしたまま、ユナリアスは見咎めたらしい艦影を指で指し示しながら、フリーディアを己が近くへと誘う。
けれどそれは、ノルに疑心を抱いたフリーディアには受け難い誘いだった。
何故なら。確かに今は、ノルがユナリアスへ牙を剥く事は無かった。しかし、フリーディアまで揃って危険な水辺へと近寄ってしまえば、二人まとめて突き落とす事の出来る好機となってしまう。
だが、フリーディアは僅かな逡巡の後で己が心の底の良心に耳を傾けると、ノルを信じてユナリアスと肩を並べ、湖の彼方へと意識を集中させた。
「……フリーディア様」
「ッ……!」
「お手を失礼します。体勢を崩して、足を踏み外されてしまってはいけません」
「そう……ね……ありがとう」
目を凝らしたフリーディアの目が、キラキラと陽光を反射する湖のはるか向こうに、微かに揺れる黒い点のようなものを捉えた時だった。
湖へ大きく身を乗り出す格好となったフリーディアのすぐ傍らで、突如静かなノルの声が響く。
瞬間。半ば反射的にフリーディアはビクリと肩を竦めるが、ノルはただ淑やかに、しかし力強く腕を握っただけで。
フリーディアはドクドクと自らの鼓動が早鐘を打ち音を聞きながら、傍らに立つノルへと礼を告げると、改めて湖の彼方へと目を凝らした。
「……君にも見えるかい?」
「そう……ね……」
そんなフリーディアに、傍らのユナリアスは穏やかな視線を向け、真剣な声色で問いかける。
目を凝らしたフリーディアの視界では、ゆらゆらと揺れていた霞みが僅かに晴れ、広がる景色の中に豆粒のように小さいながらも確かに湖の上に浮かぶ異物が見て取れていて。
フリーディアは、せめて船の形か戦艦ならば掲げているであろう旗の姿が見通せないかと目に力を込めながら、ユナリアスの問いに生返事を返したのだった。




