1931話 離反者の朝
翌朝。
アイシュの計らいにより艦長室をあてがわれたものの、テミスが己が身から武器を離す事は無く、夜通し浅いまどろみの中を揺蕩うに留まっていた。
尤も、この艦長室は建物の最奥にあり、部屋に設えられた設備こそ充実しているものの、館内へ出るには必ずアイシュが拠点としている艦橋を通る必要があり、テミスの自由を封じる意図もあったのだろう。
だが幸運だったのは、すっかりと夜が明けて見通しが利くようになった湖上にロロニアの繰る船は無く、ひとまずの危機は脱したと言えた。
「起きていますか?」
「就寝中だ」
「ふふ……中に入っても?」
「断る」
テミスがぼんやりと微睡みの残る頭で、小さな窓から差し込む朝日を眺めていると、不意に唯一設えられた扉が叩かれ、くぐもったアイシュの声が響いてくる。
昨夜、アイシュが彼女の本隊へと報告を送っていたとしても、部隊を集結させ作戦の立案・共有をする時間は必要なはずだ。
即ち。この早朝に襲撃作戦が行われる可能性は非常に低く、翻ってアイシュの用件も野暮用だと言える。
故に。アイシュの訪問を拒絶するべく、酷く不機嫌な声色で言葉を返したにもかかわらず、不敵な笑みを浮かべたアイシュが扉を開けて部屋の中へと入ってきた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「……入室は断ったはずだが?」
「貴女の意志を汲むとは言っていませんから。今、この船の主は私です。即ち、戸を開くか否かの決定権は私にあります」
「問いの意味がないではないか。もしも私が、着替え中だったらどうするんだ」
「役得ですね。しかとこの目に焼き付けると致しましょう。……ですが、既に身支度を終えられているようで。残念です」
「ッ……!! そうだった……コイツは筋金入りの変態なんだったか……」
入り口で立ち止まったアイシュと軽い調子で言葉を交わした後、テミスはパシリと額に手を当てると、うんざりとした感情を追い出すように深い溜息を吐く。
よくよく考えてみれば、ヴェネルティ側から見ればこれ以上ない程の好条件を提示されているとはいえ、その前に自分を『飼う』だとかこ巫山戯たことを抜かしていた相手の元へ、ノコノコと赴くなど間抜けの所業にも程がある。
「……それで? 何の用だ? よもや、私の着替えを覗きに来た訳でもあるまい?」
「くふっ……今から着替え直して頂いても結構ですよ? まだ寝足りないようでしたら、僭越ながら私が添い寝でも――」
「――おい」
「冗談です。まだ。……コホン。朝食の準備ができたのでお呼びにあがったのですよ」
「ハァ……ったく……。付け加えた言葉は聞かなかった事にしてやる」
今のところ、アイシュがこちらの意図に気付いた気配は無い。
胸の内で慎重に様子を窺いながらも、テミスは冗談を挟みつつ話を先へと促した。
しかし、アイシュの瞳に灯ったどこか狂気的なギラギラとした光が消える事は無く、正気すら疑うような提案を口走り始める。
だが、低い声で一言テミスが牽制を加えると、ピクリと肩を跳ねさせて正気に戻った素振りを見せたアイシュは、咳払いを一つしてから普段の装いへと戻った。
「おや残念。私の方は、いつでも歓迎しますよ? 無論、添い寝以外の事でも……ね」
「……止めろ。選択を誤った気分になってくる」
身を翻して艦橋へと向かいながら、歌うように朗らかに言葉を続けたアイシュに、テミスは深いため息を重ねて後に続く。
本来ならば、敵であるアイシュが出す食事に手を付けるなど論外なのだが、今はロンヴァルディアを裏切った身なのだ。安易に拒絶してこちらの意図が露見する危険性を高めるのは愚策だろう。
テミスは己の冷静な部分が下した判断に従いながらも、冗談とも本気ともつかないアイシュの言動から、別の意味での危機感を覚え始めていた。
尤も、毒だの薬だのを食事に盛られた所で、酒に酔う事すらできないこの身体では、さほどの効き目も無いのだろうが。
「ふふ……それが気の迷いであると証明して差し上げましょう。なにせ、昨夜は大変お疲れのようでしたからね。その分、朝食に腕を振るわせていただきました」
「安心しろ。こんな船の上だ。大した期待はしていない」
敵方の物資といえども、既製品の保存食であれば手の込んだ仕込みもできないだろう。
そもそもアイシュとて、歓迎して居る格好を見せてはいるものの、端々から完全にこちらを信用していない事は見て取れている。
だからこそ大仰なアイシュの台詞も、テミスはただのリップサービスだとタカをくくっていたのだが……。
「なっ……!?」
狭く短い廊下を抜けて、艦橋へと続く扉を開けた途端。
ふわりと漂ってきた良い香りが鼻腔を満たし、テミスは驚きに目を見開いた。
まるでダイニングテーブルかのように加工された、元はこの船を繰る為のコンソールであったらしき物体の上には、温かな湯気を立ち昇らせる容器が所狭しと並べられていて。
それらは確かに、紛れもなく携行に適した保存食なのだが、どれも手が加わっていて保存食らしからぬ料理へと進化を遂げている。
「ふふ……遠慮なく召し上がってください。こうみえて調理は得意でしてね。味には自信がありますよ」
「あぁ……これは驚いた……。有難くいただくとしよう」
驚くテミスを振り返り、アイシュは得意気に胸を張って微笑むと、そのまま自然な所作で艦橋の中へとテミスを誘った。
そんなアイシュに従って歩を進めながら、テミスは己が内で、封じ込めた筈の暴れ狂う食欲と、鋼の理性と疑心が死闘を始めたのを感じていたのだった。




