1930話 重なりゆく策
パラディウム砦への攻勢。
アイシュが出した案は、客観的な視点で評しても極めて現実的なものだった。
現状、テミスの持ち込んだ情報が全て真実であることは、テミス自身しか知るところではない。
だがアイシュ達としても、仮に真実であったならば、一撃でロンヴァルディアの布陣を突き崩す事すら出来るこの情報は、無視できるレベルのものではなかった。
しかしその重要性は、そのままテミスが情報を偽っている疑いに繋がる。
故に。アイシュは必然的に敵陣深くまで斬り込まなければならないフォローダを襲撃するのではなく、前線拠点であるパラディウム砦と、そこに留まるフリーディア達という戦力を削ぎ取る選択をしたのだ。
とはいえその考えもテミスからしてみれば、そのままそこに罠を張る理由になる訳なのだが。
「では、今夜の邂逅はここまでとしておこう。そちらの部隊には、私の事は話を通しておいてくれよ? 仲間に攻撃されては堪らんからな」
目的は達成した。
アイシュの反応から己が策略の成就を確信したテミスは、胸の内でニヤリと黒い微笑みを浮かべると、カツリと足音を立てて身を翻した。
具体的な日時はわからずとも、後はフリーディア達を誘導して防衛を固めておけば、攻め入ってきたアイシュ達を迎え撃つには事足りる。
そう考えていたのだが……。
「お待ちください」
「……っ! お前ッ……!?」
静かな声が響く共にテミスの目の前の闇がぞわりと蠢くと、まるで甲板から沸き出るかのようにアイシュが立ち塞がった。
気が付けば、書類は既に右手で握られており、空いた左手が腰に提げられた剣の鍔を掴んでいた。
「襲撃作戦の終了まで、貴女はここに残っていただきます」
「……おいおい。無茶を言うな。私とて、密かに抜け出てきた身なんだ。戻らなければ異変に気付かれ、作戦に支障をきたす恐れがあると思うが?」
「それならばそれで構いません。これだけの好機を逃すのは痛いですが、たとえ貴女の出奔が露見したとしても、貴女という戦力をこちら側に寝返らせた時点で利は我々にある」
「参ったね。これだけ努力してまだ信用されないとは」
「それだけ我々が……いえ、私が貴女という存在を重視していると思っていただければ。監視の意味も込めて、私も襲撃には参加せず、こちらで待機するとします」
得意気な表情と共に言い放つアイシュの前で、テミスは口を噤んだまま密かに歯を食いしばると、高速で思考を回転させる。
これはテミスが想定していた中でも、最悪に近い部類の展開だった。
連合を結んでいるとはいえ、ヴェネルティは三国の集まり。アイシュの所属するネルードとしては、この話は他の二国に先んじて成果を挙げる大チャンスだ。
そう認識できるように、テミスは一の餌としてフォローダへの道が拓いた事を匂わせ、二の餌としてパラディウム砦とフリーディア達をぶら下げたのだ。
しかしそれでも尚、アイシュは慎重に慎重を期すことを選んだようで。
目の前に吊るされた巨大な餌に飛び付かず、より確実な利を掴むべく選択をしてみせた。
――いや、だが呪法刀を持つアイシュを戦場から引き離す事ができるのなら、戦力の交換としては等価か……?
瞬時に巡る思考の中。
テミスは予測されるヴェネルティ側の戦力と自分達の戦力を比較し、検討を重ねる。
仮にアイシュが戦場へ赴いたとして、まともに相対する事ができるのは私やフリーディア……ないしサキュド辺りくらいのものだろう。
結局はアイシュとの戦いに戦力を割かねばならない事を鑑みれば、自分一人という極めて限定的な戦力で以て、敵の強大な戦力であるアイシュを封殺できるのは、それだけで十分な戦果と言える。
残る懸念点としては、奇襲への備えとロロニアの存在くらいのものか。
元々の腹積もりでは、裏切りに裏切りを重ねたテミスが、この場から持ち帰った情報を基に防備を整える腹積もりだった。
だがこの場に留まるのであれば、必然的にその役を担う事はできず、帰りの足として待機しているロロニアも危険に晒される可能性がある。
「フム……それは有り難い。働かなくて良いとは気が利くじゃないか。口喧しく働けと罵ってくるあいつ等よりよほど良い待遇だ」
テミスは刹那の内に思考を収めると、立ち去りかけた足をクルリと翻し、今度はアイシュが歩み出てきた扉へ向けて歩み始めた。
ああ見えてロロニアとて、湖族を率いる身だ。
こちらから合図を送る事が無ければ、予定通りの帰還を諦めざるを得ない事態に陥ったことは予測できるだろう。
ならばそこから問われてくるのは、あの島に駐留しているフリーディア達の地力だ。
「勘違いしないで下さい。この場に留まり、疑いを晴らす事が今の貴女にできる唯一の仕事なのです」
「そうかい。とはいえ、茶や菓子は出るんだろうな? お前と揃って高みの見物を決め込むにしても、退屈に殺されては堪らんぞ?」
胸の内で方針を定めたテミスは、内なる感情の揺らぎを漏らす事なく飄々と嘯いてみせると、眉を顰めるアイシュを振り返って皮肉を叩きつけたのだった。




