1928話 裏切りの一手
夜の湖を渡る航海は、一時間にも満たない短いものだった。
漆黒の闇に包まれ、視界の利かない中。ロロニアは明かりすらともす事無く徐々に船の速度を緩めると、コツリと舳先が触れる微かな音だけを奏でて船を止める。
「到着だ」
「感謝する。では、お前は私が合図するまで少し離れて待機していてくれ」
「……良いのか?」
「念の為だ。帰りの足を潰されては堪らん」
「了解だ」
テミスはロロニアと短く言葉を交わすと、一足飛びに船の甲板を蹴って跳びあがり、島と化した巨大戦艦の甲板へと飛び移った。
ロロニアの問いに込められていた真意は、テミスもよく理解していた。
今この場からロロニアが離れてしまえば、一時的とはいえテミスは帰りの足を失うのだ。
それは即ち、退く事の叶わぬ戦場へと赴くに等しく、危険度は計り知れない。
だがテミスは、ロロニアの案ずる気持ちよりも実利を優先した。
仮にこの船で戦いになった時、ロロニアがこの場に残った場合、確かに即時撤退の判断を下す事は出来るが、その対価として帰り道の船という弱点を守りながら戦う羽目になる。
ならば、少しばかり危険だとしてもロロニアをあらかじめこの場から引き離し、全力を出せる環境を整えたのだ。
「…………」
その意図を汲み取ったのか、ロロニアはテミスに抗弁する事無く船を繰ると、暗闇の中へ呑まれるようにして姿を消した。
瞬く間に消えていくロロニアの背を十分に見送ってから、テミスはゆらりと身を翻すと、固い足音を響かせながら巨大戦艦の甲板を歩き始める。
明かり一つ無い甲板にはそこかしこに争いの後があり、テミスたちがこの船を去った後にも、何某かの戦いがあった事が見て取れた。
それが、この船に残された兵達が僅かな物資を奪い合って殺し合った痕なのか、それともテミス達ロンヴァルディアの勢力とは全く別の第三勢力なのかはわからないが、少なくともいまこの船に生存者は居ないのだろう。
「クク……沈んだ幽霊船と言った所か……。お誂え向きじゃないか」
甲板には幾つか、船内へと続いている出入り口があったものの、階下へと続くそれらの入り口はことごとく浸水しており、テミスはとても足を踏み入れる気にはなれなかった。
だが唯一、甲板から上へと続いている建造物。
恐らくは指揮所や艦橋が設えられていたであろう場所の前まで辿り着くと、テミスはクスリと頬を歪めて不敵な笑みを浮かべ、静かに嘯いてみせた。
無論。この場には人の子一人として居らず、さざ波の音だけが響く闇の中には、人の気配など毛ほども感じられない。
それでも、テミスの胸の内にはどこか確信めいた思いがあり、まるで誰かを待っているかのように、眼前の上階へと続く入り口を見据えていた。
すると……。
「驚きましたよ……。まさか、貴女の方から出向いて下さるとは……」
コツ……コツ……と。
暗闇の中に足音を響かせながら、テミスの見据える入り口からアイシュが姿を現すと、肩を竦めて嘯いてみせる。
その手には未だ、あの禍々しい剣は握られてはいないものの、まるで出迎えるかのような口ぶりとは裏腹に、アイシュは濃密な殺意を身に纏っていた。
「おかしなことを言う……誘ったのはお前だろう?」
「誘う……? ははっ……! まさか今更裏切るとでも言う気ですか? そんな戯れ言が通用するとでも?」
「いつでも歓迎すると言っていた筈だが? お前こそ、今更嘘だったなどと抜かす気ではあるまいな?」
「いえ、本心ですよ。ですがまさか……こうして来て頂けるとは、露ほども考えてはおりませんでしたので」
二人は互いの間合いの僅かに外側に立ち、不敵な笑みを向け合いながら、絶妙な距離を保って言葉を交わす。
「ですが、貴女の言葉をそのまま信ずるわけにもいきませんね。でしたらあの時、背を向けた私に斬りかかる必要は無かったでしょう」
「ハンッ……その程度で拗ねるな。あの場には厄介な奴が居たからな。あいつのしつこさは筋金入りだ、何度斬り払おうとも食らい付いて来るぞ? むしろ、私の機転に感謝して欲しいくらいだ」
「なるほど。白翼騎士団団長フリーディア……。噂に違わぬ強さであるならば、確かに貴女の言う通りかもしれません」
「ご理解いただけたようで何よりだ。それで? お前はここで何をしていたんだ? まさか、私を待っていたという訳ではあるま――っ!!」
「…………」
目を細めて疑うアイシュに、テミスは浮かべた微笑みを崩さぬまま、飄々とした態度で言葉を返した。
事実。あの場でテミスが裏切りなどすれば、フリーディアは息の根を止めるまで追い縋ってくるに違いない。
欠片ほども嘘の含まれていないテミスの言葉に、アイシュは少し考え込むような素振りを見せた後、納得したかのように頷いてみせた。
それを見たテミスは、微笑みを皮肉気なものへと変えて嘯いた後、ゆっくりと数歩アイシュへ向けて歩み寄る。
だがその瞬間。
アイシュの手が腰の剣へと閃き、歩み寄っていたテミスの足もその声と共にビタリと止まる。
「すみませんが、それだけで貴女を信じる訳にはいきません。理由には納得しましたが、それでも一度は斬られている身ですからね」
「クク……やれやれ。用心深いね。なら、これでどうだ?」
手を剣へと番えたまま、アイシュは疑心を収める事無くテミスへと向け続けた。
そんなアイシュに、テミスは喉を鳴らして笑った後、懐から書類の束を取り出して朗々と問いを放ったのだった。




