1921話 裏切りの誓い
倫理。
それはヒトがヒトの世で生きるにあたって、普遍的にして根源的な正義の基準だ。
人を殺してはいけません。他人の物を奪ってはいけません。
そんな、ヒトが生きていくうえでの最低限度の常識。
それは世界が変わった程度では揺らぐ事は無く、魔法などという超技術が存在し、魔族などというヒトとは異なる体を持つ知的種族が存在するこの世界においても、他者の命を奪う行為や、他人の財物を略奪する行為は『悪』であると位置付けられている。
尤も、一部例外的にその普遍的たる一線を越える者はどちらの世界にも存在したが、彼等ですら自身の犯した行為が『悪』であると認識していた。
だが……。
「ユウキ。一つだけ確認だ。これはとても重要な事だから、嘘偽りなく答えて欲しい」
「え……? う、うん……」
僅かに震えを帯びた声でテミスが口を開くと、ユウキは一変したテミスの雰囲気に驚きの表情を浮かべながらも、素直にコクリと頷きを返す。
仮にユウキの語った情報が真実であったのならば、呪法刀を創り出す際に必要な、多くの人を苦しめ、命を生贄と捧げる行為は、紛れもなく悪しき行為だ。
しかし、アイシュの言動からは、己の握り締めた武器がそのような悍ましき悪逆の果てに生み出されたものであるなどという意識は感じ取れなかった。
そして今、ユウキの語った呪法刀の制作者。
その人物が本当に、彼の世界からの転生者であるというのならば。
伝え聞いただけのものではあるが、テミスにはその人物の言動からは在って然るべき感情が欠落しているように思えた。
「そいつは……呪法刀を作り出したという奴は、自らが作り出す武器にどんな感情を抱いていた? お前に呪法刀の事を語り聞かせた奴は……どんな顔をして説明をしていた……?」
慎重に、意図が間違って伝わらないように、テミスはゆっくりと言葉を選びながら、ユウキに問いかける。
もはやそこに怒りの感情は無く、祈るような想いだけが籠っていた。
全てが勘違いであったならば、どれ程良いか。
絶望を告げ続ける自らの経験と直感を否定しながら、テミスは静かにユウキの答えを待った。
あのサージルでさえ、狂った信仰に心を奪われて尚、善悪の基準は確かに存在した。
けれど、もしも……テミスの予測が当たってしまっていたとしたら……。
「……笑っていたよ。呪法刀は時代を……不遇な人間達の歴史を変えることの出来る素晴らしい武器だって」
「そうか……」
テミスの内心を察したかのように、低く沈んだ声で告げられたユウキの答えに、テミスはただ一言だけ唸るように言葉を返す。
もはやそいつは救いようがない悪だ。
一縷の希望に縋るかのような望みすら絶たれ、テミスは急速に冷えていく胸の内で独りごちる。
元より、誰かを救う気の無い私がこのような言葉を使うのは間違っているのかもしれない。
本来ならばフリーディアのように、悪しき心を持つ者にでさえ、救いを試みるようなものこそが口にすべき言葉なのだろう。
だが、それ以外に評する事のできる言葉は無く、テミスはぎしりと固く歯を食いしばった。
「お前を自由にすることはできない」
「っ……。そう……だよね……」
しばらくの沈黙の後。
テミスは改めて、絞り出すような声でユウキの頼みを拒絶した。
ユウキの情報が真実ならば、ヴェネルティとロンヴァルディアの戦争は、これからより一層激しさを増すだろう。
そんな中で、ヴェネルティ側の一員として戦線に加わったユウキを解放などすれば、テミスだけではなく、共にこの島に居る白翼騎士団や蒼鱗騎士団までもが叛意を疑われかねない。
「だが……誓えるか?」
「えっ……? 何を……?」
「お前が許せないと憤ったその心に。勇者の栄光を棄て、裏切りの汚名に塗れても、その正義が揺らぐ事は無い……と」
「ッ……!!!」
囁くように告げられたテミスの言葉に、ユウキは鋭く息を呑んだ。
この人と戦って一つ、わかった事がある。
ボクはずっと一番に……誰よりも凄い自分になりたいと思っていた。
でもそれは間違いで。ボクがずっと、ずぅっと欲しかったのはただの『強さ』なんかじゃなかった。『強い』人たちがキラキラパチパチと輝いていた、あの世界そのものだったんだ。
だから……!
「誓うよ。……ううん、誓います。ボクは……ボクも、皆を笑顔にしたいんだ。キラキラした世界に、あんな武器はあっちゃいけないから……!!」
「フッ……ならばもうしばらく、ここで大人しく待っていろ。使えるものは何でも使う主義なんでね。こう見えて横紙破りは得意なんだ」
固い決心と共にユウキは静かな決意を胸に、身を翻したテミスの背へ向けて言葉を紡いだ。
そんなユウキに、テミスはクスリと皮肉気な微笑みを浮かべると、重たい営倉の扉を押し開けたのだった。




