1909話 闇の刃
先手必勝。
アイシュと相対したテミスが選んだのは、至極単純な戦術だった。
相手が反応し得ない速度で急襲し、強烈な一撃を持って叩き伏せる。
名乗りをあげたアイシュと言う名前が偽名である可能性こそ否めないものの、ヴェネルティ側の人間と目される上に、自然な仕草で構えられた剣には淀みが無く、積み重ねられた丹念の厚さを感じさせた。
つまり、このアイシュがテミスやユウキと同じ理外の力を有する転生者である可能性は低く、ならば人の枠を超えたテミスの膂力と速力であれば、鎧袖一触にできると踏んだのだ。
「――ッ!!!」
小さく、そして鋭く息を吐きだしたテミスは、強靭な脚力を以て地面を蹴りつけると、大剣の切っ先をアイシュへと向けたまま、一足飛びに間合いを詰めた。
その刹那に言葉を挟む余地など無く、元よりテミスの踏み込みは余人の目に捕らえられるような速力ではなく、瞬く間にアイシュへと肉薄する。
戦いとすら呼ぶべくもないたった一合の剣戟。
己が間近にまでテミスの接近を許して尚、長剣を構えたアイシュは微動だにする事は無く、未だに余裕を窺わせる薄い笑みを浮かべていた。
「フッ……!!!」
下らん徒労だ。
冷え切った思考の中でそう嘯いたテミスは、手首を返して大剣の腹を振りかざすと、アイシュの頭へと狙いを定める。
先ほど僅かばかりに言葉を交わしただけでも、このアイシュが禄でも無い趣味をしている事は確かで。
テミス個人としては、もはやこの場で斬って捨て、砦に転がる骸の一体に加えてやっても構わないのではないかと思ってしまう。
けれど、それを断行したが最後、背後に控える口喧しい団長殿に、夜を徹して小言を垂れ流され続ける事になるのは目に見えていて。
ならば情報を引き出すついでに自身の精神衛生上の為にも、どうしてもこの場で斬り捨てる必要は無いだろう。
そう判断したが故の一撃だったのだが……。
「…………」
クス……と。
テミスが振りかざした大剣を叩き付ける刹那。
昏い微笑みを浮かべていたアイシュの口角が吊り上がる。
あり得ない。
そもそも、アイシュは未だテミスにここまで接近を許した事すらも知覚できていないはず。
その証拠に、構えられた闇色の長剣は微動だにしておらず、知覚していれば自ずと反射的に応じてしまう筋肉の一筋すらも反応できずにいる。
しかし、理屈ではそう理解して尚、テミスの背筋には未だに氷柱でも突き込まれたかのような怖気が走っており、己が身に迫る危機を直感していた。
「チィッ……!!!」
須臾の内で巡らせた思考の後。
テミスは忌々し気に舌打ちをすると、己が直感に従って攻撃を中断し、振りかざした大剣を軸に宙がえりをし、アイシュの頭上を跳び越す形でクルリと一回転をする。
ここで選択の余地が生まれたのは、ひとえに斬り殺す気で飛び込んでいなかったお陰だろう。
防御ごと斬り伏せる気概で飛び込んでいれば、たとえ危機を直感しようとも、回避に転ずるだけの余裕は無かったはずだ。
直後。
「ッ……!!?」
ゾン……!! と。
アイシュの足元から音も無く漆黒の刃が突き上げ、つい先ほどまでテミスの居た空間を貫いた。
もしもあのままテミスが攻撃を続けていたら、今頃は真下から襲い来るあの漆黒の刃に為す術もなく、串刺しにされていた事だろう。
「おや……? よく躱せましたね。てっきり、これで決まると思っていたのですが」
「ほざけッ! 不意打ちに闇討ち……名すら偽るとは、存外堂に入っているではないか」
「何のことでしょう? 私はただ、私に持ち得る術を以て貴女を迎え撃ったのみ。名を偽った覚えもありません」
放たれた漆黒の刃は身を翻したテミスの背を浅く裂いた後、数秒の間その場に留まってから霧のように霧散する。
しかし、テミスの背に走る鋭い痛みが刃の確かな存在を証明していて。
僅かな血飛沫をまき散らしながら着地した自身を振り返り、飄々と告げるアイシュに対して、テミスは皮肉気な微笑みを浮かべて吐き捨てると、膝を地に着いたまま追撃に備えて大剣を構え直した。
だが、アイシュはただテミスに相対するように身体の向きを変えただけで動く事は無く、携えている闇色の長剣の構えも変わる事は無かった。
「クク……ほらを吹いてろ。そういう事ならば、こちらも戦い方を変えるまでだ」
そんなアイシュに、テミスはじわりと発する背中の傷の痛みに歯噛みしながら立ち上がると、再び持ち上げた大剣の切っ先を突き付けて不敵に微笑んで見せたのだった。




