1903話 背後の気配
死霊魔術。
それはかつての戦いで、魔王軍第十一軍団長を務めたシモンズの用いた魔法だ。
だが、シモンズの扱った魔法には、テミスの知る限りでは死者から生者へと感染していく類の術式は無く、奴を屠ったサキュドからの報告でも、生者を繰るには一度殺してから、奴自身が直接魔法を刻む必要があると聞いている。
しかし。
シモンズというたった一人の魔法使いが持ち得なかったからといって、安心できるものではない。
そもそも、シモンズ自身が死霊魔術を最奥まで極めて居たとは限らず、奴自身が扱えなかったが故に、世の理として自律して死を媒介する死者が存在しないという証明にはならないだろう。
とはいえ、『存在しない』事を証明する事は、悪魔の実在を証明する事と同様に不可能で。
だからこそテミスは、少しでもこの世界に自らの足で生者を探して歩きまわり、死病をまき散らす死者を最大限警戒すべく、情報を欲していたのだ。
「……なるほど確かに、背筋も凍りつくような恐ろしい話だ。参った。さっそく私は、好奇心に負けて君の後を追わなければよかったと後悔しているよ。これではもう、今夜眠ることはできなさそうだ」
「悪いな。だが、早急に確かめる必要があった。もしもそのような病が……いや、化け物が存在するのならば、この島での作戦を大幅に変更する必要が出てくる」
テミスが己の推測と経験、そして軍団長シモンズの扱った術式を語り聞かせると、ユナリアスはぶるりと身震いをしたうめき声を漏らす。
苦笑いを浮かべた頬には一筋の冷や汗が浮かんでおり、己が身を庇うかのように抱いた両の腕は、力強く脇腹へと食い込んでいた。
「あくまでも私の知る限りという前提にはなるけれど、そういった病の事例が確認されていた覚えは無いね。けれど確かに、戦場からほど近い小さな町や村が、ある日突然滅びたという記録はあるし、君の話を否定し切ることはできないだろう」
「いや……事例を観測する者ごと死に絶えた可能性こそあれど、頻発する事象でない事がわかっただけでも収穫だ」
「ははっ。そんな恐ろしい事がそんなにたくさん起こっていたら堪らないよ。それに、この島には当てはまらないけれど、戦後の処理は低位冒険者たちにも依頼が出る筈だし、現実問題としてはあまり心配をする必要は無いと思うよ」
「フム……」
ともすれば、この胸騒ぎは杞憂なのか?
そうテミスは僅かに胸を撫で下ろしながら、静かに思考を巡らせ続けた。
この世界の常識としてのユナリアスの役目は非常に優秀で、魔族領に関する知識こそ偏ってはいるものの、高度な教育を受けた確かな証が在った。
そのユナリアスがこうまで断言し得るのだ。
死者の腐肉が要因で発生する疫病の類は存在したとしても、そこに魔法的な力が加わった凶悪な災害が存在する可能性は薄いとみて良いだろう。
けれど……。
「……どうした? 私には、何やら浮かない顔で考え込んでいるように見えるが」
「うん……。何かがこう……引っ掛かっている気がして仕方が無くてね。君から聞いた増え歩く死者の病……。そのものでないことは確かなのだけれど、似た何かを知っている気がして……」
「っ……!」
目を細め、月明りをキラキラと反射している湖へと視線を向けたまま考え込むユナリアスに、テミスは堪らずゴクリと生唾を呑み込んだ。
たとえ似て非なるモノであったとしても、直面すれば厄介極まりない存在である事に変わりはない。
仮にもしも、更に凶悪な性質を持つものならば、可及的速やかに対策を打つ必要があるだろう。
「ユナリアス。思い出せ。何が引っ掛かった? 死に至る病か? それとも、歩く死者か? それとも、治療する為の薬学の類か?」
「いや……違う……気がする……。歴史……? いや、神学……?」
「何でもいい。死霊魔術……は違うだろうな、魔法の類では無いはず」
「っ……! 魔法……! そう、それだ!!」
「ッ……!?」
ピクン。と。
思い付くがままに単語を並べ立てるテミスの言葉に、ユナリアスは突如として肩を跳ねさせると、湖へと向けていた視線をテミスへ向けて口を開いた。
「確かあれはやけに古いおとぎ話の本だった! 世界を救い給うた勇者様が居て……あぁ、思い出してきた! 醜悪な二つ頭の獣と戦ったというお話だよ! 激闘の末に、呪われし返り血を浴びてしまった勇者様が、我を忘れて仲間の戦士様に襲い掛かるんだ!」
「おとぎ話……? 醜悪な双頭の獣?」
「そうさ! あわや勇者様御一行と一緒だった男の子も襲われかけた時! 同行していた聖女様によって事なきを得るのだけれど、その時に醜悪な獣が残した呪いだよ! 呪いに侵された勇者様が首筋に食らい付く事で、戦士様にも呪いが伝染してしまうんだ!!」
胸中の靄が晴れたと言わんばかりに、ユナリアスは明るい表情を浮かべて喋りはじめるが、話が進むにつれてテミスの表情は呆れたように歪んでいく。
戦場に蔓延る病の話をしていたというのに、何故勇者だの双頭の獣だのといった輩の話が出てくるんだ……?
確かに、ヒトからヒトへと感染ると言う点は似通ってはいるものの、流石にこの話を理由に作戦を変更するのは現実的とは言い難い。
「あ~……すまん。ユナリアス、折角思い出して貰って悪いんだが……」
「――それからの話がまた面白くて……。……っと、すまない。つい熱が入ってしまったけれど、これでは――」
苦笑いを浮かべたテミスが、熱弁するユナリアスの腕をつついて止めた時だった。
「……ねぇ」
「――っ!!!!?」
「っ~~~~~!?!?」
静かな声が突然響くと共に、並んでいたユナリアスとテミスの肩にひたりと何かが触れる。
刹那。
声にならない絶叫をあげながら二人は全力で身を翻し、揃って腰に提げていた得物を抜き放った。
だが。
「きゃ――ッ!?」
ゴッ……!!! と。
テミスとユナリアスは自らの握る武器の柄頭に鈍い感触を覚えたと同時に、眼前から響いたか細い悲鳴に我に返る。
「…………」
「あ~……」
そこには。
額に二つ、柄頭の痕を残したフリーディアが、目を回して伸びていたのだった。




