1902話 積み重なる秘
慌ただしい夕刻が過ぎて夜。
歩哨に立つ騎士以外の者が眠りについた時間。
闇の中に溶けるように己が気配を殺したテミスは、独り割り当てられた天幕から抜け出すと、僅かな衣擦れの音を残して野営陣を歩み去る。
とはいえ、目指す先はただ明るい突きに照らし出された水辺で。
短い湾の傍らをぼんやりと歩みながら、テミスはとある事に思考を巡らせていた。
「…………」
黒死病。
それは彼の世界にて、大きな傷跡を後世に残した最悪の病の名だ。
技術と研鑽を重ねたあの時代であったからこそ、その名は歴史の中に綴られているだけのもので、恐怖を伴う事は無かった。
だがここは違う。
なにせ未だに、ヒトとヒトが骨肉の殺し合いを続けている世界なのだ。
今までその名を耳にする事は無かったものの、魔法という名の異なる体系をした技術があるとはいえ、あれほど猛威を振るった病が根絶したと考えるのは楽観が過ぎるというもの。
加えて……。
「ッ……!」
ぶるり。と。
テミスは歯を食いしばって身を震わせると、思考を進めていくうちに脳裏を過った一つの可能性を突き詰めていく。
そう。あくまで『私』の知識の中にあるこの病は、一つの基準でしか無いのだ。
ともすれば、この世界でも既に有効な対策が存在し、脅威足り得ない病なのかもしれない。
けれどその逆ならば……?
遺体を掃いて捨てるほどの死者を出す病など足元にも及ばないような……。そう、例えば死者がひとりでに歩き出し、逃れ得ぬ死病を無限に媒介する。
こちらの世界には、死した者を己が配下とする死霊術師なる術を操る者も居るのだ。
彼の世界では、空想の産物であった凶悪な歩く死体共が、今眼前に現れたとてなんら不思議ではない。
「……他に手が無かったとはいえ、早計に過ぎたか?」
周囲の暗闇と、廃村独特の陰鬱な気配に浸食されるかの如く、テミスが腹の底からせり上がってくるような恐怖と不安に駆られて呟いた時だった。
「……何が、早計だったんだい?」
「ヒィッ……!!? ッ~~~~!!!!」
突如として背後から響いた静かな声と共に、テミスの肩へ柔らかに掌が乗せられた。
瞬間。
テミスは飛び上がらんばかりにビクリと全身を跳ねさせながら悲鳴を漏らした後、雷鳴の如き速度で身を翻し、弾かれたように閃かせた右手で、腰の刀を中程まで抜刀する。
「――っ!!!? わわッ……!! 私だッ! ユナリアスだ!! すまない……!! 驚かせるつもりは無かったのだが……」
「ッ……!!! フゥ~……フゥ~ッ……!! っ……!!」
しかし迸る白刃は鞘から抜き放たれる直前でビタリと止まり、数秒遅れて抜刀しかけたテミスに気が付いたユナリアスが、慌てて両手をはためかせながら弁明の言葉を口にする。
その眼前で。
テミスは肩を大きく上下させて荒い息を吐きながら、目尻に浮かんだ涙を必死で押し殺していた。
「遅くまでフリーディアと話を詰めていた所為か、どうにも眠りが浅くてね……。君が天幕を抜け出していくのに気付いたのさ。その時の表情が何処か思い詰めているようだったから、何か力になれればと追ってきたのだけれど……」
「…………。お……お……驚かすな……。っ……フゥ……危うく斬ってしまう所だったぞ」
苦笑いを浮かべて言葉を重ねるユナリアスに、テミスはキンッ……! と軽快な音を立てて抜き放ちかけた刀を鞘へと納めると、緊張と恐怖で固まってしまった喉をどうにかこじ開けて言葉を返す。
この廃れた漁村という場所といい、丁度考えを巡らせていた事といい、全くこれ以上ない程に最悪のタイミングで声をかけてくれたものだ。
バクバクと未だに早鐘を打つ自身の心臓の音を聞きながら、テミスは心の内でそう吐き捨てると、ゆっくりと右手を刀の柄から離した。
だが、鞘を固く握った左手だけは凝り固まってしまって、どうにも離れなかった。
「フフッ……! 確かに、随分と可愛らしい悲鳴だった。あぁ、安心して良いよ。フリーディアは天幕さ。疲れ果てて眠っていたからね」
「なっ……くっ……! 忘れろ。仕方が無いだろう。雰囲気に中てられていたんだ」
「それは……君のその浮かない表情に関係があるのかい?」
そんなテミスに、ユナリアスは口元に手を当ててクスクスと上品に笑ってみせると、意味深な笑みを浮かべてチラリと視線で背後を示しながら言葉を付け加える。
そこに込められている者がユナリアスの心遣いである事は重々承知していたものの、顔が熱くなる程の赤面を覚えていたテミスは、反射的に湖の方へとそっぽを向いて応じた。
だが、ユナリアスは喜色に飛んでいた声を穏やかな静かな声色へと一変させると、テミスの横顔に視線を注ぎながら問いかける。
「…………。まぁな」
「聞かせて貰っても? 全てでなくても構わない。これでも、小賢しさには自信があるんだ。少しでも力になれるやもしれない。また一つ秘密が増えた所で、私たちの間じゃ今更だろう?」
「……クスッ。やれやれだ。そこまで言うのならば、その小賢しさとやらを貸して貰うとするか」
幾ばくかの沈黙の後、短く返答を返したテミスに、ユナリアスは穏やかな表情を変えずに問いを重ねた。
すると、テミスもまたクスリと表情を緩めて肩を竦めると、暗い湖の向こうへと視線を向けたままそう答えたのだった。




