1892話 逆鱗の淵
「フッ……。仰せのままに。前向きなご検討を期待しておりますよ。この情勢下であっても、遊び歩いているような者の愚言になど惑わされませんよう。……ロンヴァルディアの未来のためにも」
「…………」
気炎を上げたフリーディアに、モルムスはクスルと嘲笑を浮かべてテミスを一瞥してから、恭しく頭を下げて部屋から退出していく。
だがその間も、無言を貫いたテミスの左手は刀の鯉口を斬り続けており、右腕も僅かに持ち上げられた状態を保ち続けていた。
それは紛れもなく、モルムスが背を向けて尚、テミスが戦闘態勢を維持していることの表れで。
部屋を辞したモルムスの気配が完全に消えるまで、ユナリアスとフリーディアの間に走る緊張が緩む事は無かった。
そして、緊張を孕んだ沈黙がしばらくの間続いた後。
「ッ~~~!!! テミスッ!! 貴女ねぇ!!! 今ッ!!! 本気でモルムス司令を斬る気だったでしょうッッ!!? 気に入らないからって幾らなんでもそれはやり過ぎよ!!」
ぶるぶると身を震わせながら堪えていたフリーディアの怒りが爆発し、部屋の中に怒声が響き渡った。
だが、肝心のテミスは刀の鯉口を切っていた左手こそ離していたものの、自身に怒りを向けて叱責の声を上げるフリーディアには冷ややかな視線を送っていて。
それがさらにフリーディアの怒りに油を注ぐ。
「今回ばかりは言い逃れ出来ないわよ!! 確かにモルムス司令の態度にも非はあるけれど、たったそれだけの事で武器に手をかけた貴女はもっと悪いわッ!!」
「キンキンと声を張り上げるな喧しい。善悪などどうでも良い。どちらにせよあの男はこちらの手勢の癌……病巣たり得るものだ」
「だからといってッ! 手当たり次第に切って捨てて良いわけがないでしょう!! 彼はこのフォローダを守る防衛隊の総司令なのよ?」
「あんなのが総司令か。どうやら人材不足は深刻らしい。ユナリアス。ファントから幾らか手勢を招聘してやろうか?」
「真面目にッ! 私の話をッ!! 聞きなさいッ!!!」
「…………」
しかしそれでも。フリーディアの怒りにテミスがまともに相対する事は無く、顔を顰めて肩をすくめてみせた後、邪魔な虫でも追い払うかのような手振りであしらったばかりか、視線をユナリアスへ向けて皮肉を重ね始める。
そんなテミスに、フリーディアは遂に怒りがはち切れたらしく、ガタリと荒々しく椅子を跳ね除けると、猛然と大股でテミスへ向けて突進して胸倉を掴みあげた。
けれどそうまでして尚。フリーディアに向けられたテミスの眼は氷のように冷ややかなもので。
為されるがままに胸倉を掴み上げられるテミスの姿からは、何処か失望めいた気配まで滲み出ていた。
「お前の世迷言など真面目に耳を傾けるだけ無駄だよ。フリーディア。奴の話を聞いていなかったのか? お前は。正直、刺突魚の件が無ければ、今すぐにでもロロニアを焚きつけて、あの巨大戦艦を破壊しに向かっている所だ」
「それは……!! 彼も言葉を尽くせばきっとわかってくれるわ! モルムス司令のあの言動は、ロンヴァルディアを思えばこそのものだもの!!」
「奴の心の内など知った事か。それともフリーディア、お前は奴の案に賛成なのか? だとするならば、いつの間に宗旨替えをしたかと問わなければならんわけだが……」
「下らない挑発には乗らないわよ! ヴェネルティは強大な力を持っているわ。こちらの戦力の増強は急務……この戦いに負けない為にも必要な事よ」
「…………。ユナリアス。お前の意見は?」
視線をフリーディアへと向けたテミスは、フリーディアの手を振り払ってから吐き捨てるように告げる。
だが、それだけでフリーディアが止まるはずも無く。
大きく身振り手振りを用いながら熱弁するフリーディアに、テミスは低い声で問いを投げかけた後、冷ややかな瞳のままユナリアスへも水を向けた。
「っ……! 私……は……!!」
「クス……勘が良いのも考え物だな? さて……ともあれ。これだけで既に、私は単独行動に打って出ても良い訳だが……」
「良い訳ないでしょうッ!! テミス! 冗談もいい加減にしないと――」
「――いい加減にするのはお前だ。フリーディア」
テミスの問いに、ユナリアスは唇を噛んで言い淀むと、逃れるかのように視線を逸らす。
しかしその態度こそ、ユナリアスの意見を何より雄弁に物語っており、テミスは肩をすくめてクスリと微笑んだ後、笑みを皮肉気なものへと変えて言葉を続けた。
そこへ、怒り心頭のフリーディアが再び気炎を上げるも、それを呑み込むかの如き冷ややかな殺気と共にテミスの言葉が叩きつけられる。
「お前は自分の言葉の意味が解っているのか? 私は何も、新たに得た技術の牙が、我々ファントへ向けられるから阻んでいる訳ではない。奴の示した道の先に在るのは虐殺だ。フリーディア。お前は、パラディウム砦のように敵の町を砲火で焼き、そこに住まう無辜の人々をも殺し尽くすと言うのだな? 必要であるが故にッ……?」
「ッ……!!! そんな事は誓ってしない……!! する訳が無いッ!」
「お前がやらずとも、あの男がやるさ。さて……そのような虫唾の走る惨劇を引き起こすというのならば、私は元凶を断つ。奴を消すなと言うのならばそうさな……。いっそのこと、私がこの町の戦力を蹂躙してやれば諦めもつくか?」
全身に震えが走るほどの殺気の中。
テミスは辛うじて反論するフリーディアの言葉を一蹴すると、爛々と紅い瞳に怒りに似た強い光を宿してフリーディアを見据え、凶悪な笑みと共に問いを重ねたのだった。




