1889話 正体不明の釣果
襲撃者達との戦いから数日。
蒼鱗騎士団の者達も白翼騎士団の者達も、相変わらず毎日毎日酷く忙しそうに駆けずり回っていた。
だが、以前の戦いで捕らえたユウキ達も、また今回の一件で新たに捕らえた襲撃者達も新たな情報を吐く事は無く、時間は着々と無為に進んでいる。
けれど、以前としてテミス達に新たな命令が発令される事は無く、今日も今日とてテミスは退屈を紛らわすために湖に糸を垂らしながら、ぼんやりと彼方に揺れる水平線を眺め続けていた。
「くぁ……」
穏やかな波が寄せては返す柔らかな音は耳に心地よく、ゆったりと流れる時間は、とても今この町が戦時下に置かれているなどとは露ほども思えないもので。
特大の欠伸を浮かべたテミスは、同時にビクリと水中へ引き込まれた竿先に合わせて、ビシリと竿を立てる。
「むっ……クッ……? 随分と活きが良いな……?」
しかし、一度は頭上に広がる晴れ渡った蒼空を穿つかの如く掲げられた釣り竿も、すぐに力強く水中へと引き込まれ、大きな負荷によってしなやかに曲がった釣り竿がミシミシと嫌な音を奏で始めた。
それでも、水面へ足を投げ出す格好で腰を下ろしたテミスの体幹がぶれる事は無く、グイグイと手元に伝わる感覚を楽しみながら、右へ左へと暴れ回る竿へ力を籠め続ける。
そして……。
「…………。コイツは……食える……のか……?」
バシャバシャと派手な水音をたてながら水面へと上がってきた糸の先には、一匹の大きな魚が吊り下がっていた。
だが、ひと目で捕食の為に備えられていると判る鋭い歯に、額から突き出た一本の大きな角は、テミスの知る『食用魚』の姿とはおおよそかけ離れており。
無事に陸の上へと釣り上げたは良いものの、テミスはビチビチと荒々しく跳ね回る魚を眺めながら小声で呟きを漏らした。
「おいおい……何だあの角は。鋼か何かでできているのか?」
加えて、魚の額から突き出た大きな角は、魚が暴れ回って地面を引っ掻くたびに、ギャリンッ! ジャリンッ! と物騒極まりない音を奏で、石造りの地面に傷を残している。
もしも万が一、あの跳ね回る鋭い角の先が伸ばした掌などに向こうものなら、柔らかな人間の手などひとたまりも無く貫かれる事は間違い無いだろう。
「……逃がすか」
釣り上げた魚を見据えながら、じっくりと一分ほど考えた結果。
テミスの出した結論は逃がす事だった。
元よりこの釣り自体が手慰みの暇潰しのようなもの。更に言うのなら、この町の漁師たちのように本格的な道具を揃えている訳でもなく、こんな見るからに凶暴な魚を相手に怪我をする危険を犯すなど愚かな事だ。
尤も、刀を抜き放てばこの程度の魚など仕留めるのは容易い事なのだが、魔物でもないただの魚を捌くために使われたとあっては、贈り主のヤタロウたちも浮かばれまい。
「いや……奴等ならばむしろ面白がりそうではあるが……。はて、待てよ?」
だが、脳裏に浮かべたヤタロウ達の姿は何故か、悲しんだり怒ったりしているどころか腹を抱えて爆笑しており、テミス自身もまたその姿には何一つ違和感を覚える事は無かった。
しかし、そこまで考えが至ってはじめて。
テミスの脳裏に新たな一つの可能性が過る。
この世界にはただの獣だけではなく、ヒトから魔獣と呼ばれて危険視されている生物たちが存在する。
陸上の生物たちに魔獣が存在する以上、水中の生物にそれが適用されない理由は無く、テミスの記憶に無いこの異様な魚が、魔獣でない保証はどこにもない。
「……となると、安易に逃がす訳にもいかないか」
既に数分が経過しているというのに、未だに弱る素振りすら見せずに暴れ続ける魚を眺めながら、テミスは酷く面倒くさそうに溜息を漏らした。
かといって、一度捕らえておくにしても、これ程までに立派な角と強靭な体力を持つ魚では、テミスの持つ木製のバケツなど易々と貫かれる事は目に見えている。
「そもそも入らないだろうしな。ハァ……仕方が無い。面倒だがこのままロロニアの奴にでも聞きに行くか」
テミスは魚とバケツを見比べて再びため息を吐くと、糸の先に凶暴な魚を吊り下げたままゆっくりと立ち上がった。
いっそのこと、そこいらから木材でも調達してきて、このご立派な角を突き立てて運んでやれば良いような気もしてきたが、残念極まる事に辺りを見渡しても『鞘』代わりになるような大きさの木材が都合よく転がっているはずも無く。
「あぁ……重たいし面倒臭いし……。厄日だな。今日は」
深々と溜息を吐いたテミスは、暴れ回る魚を吊り下げた釣竿を手にしたまま、ロロニア達の根城である酒場に向けてトボトボと歩き出したのだった。




