1882話 夜更けの帰り道
港町の夜は静かだ。
日が落ちて尚より一層の賑わいを見せるファントの町とは異なり、フォローダの町の多くの店は夜半を過ぎる前に軒を下ろしている。
ロロニアの話では、朝の早い漁師の町であるが故の習慣らしく、代わりに朝は日が出る前から湖に繰り出す漁師たちの為に店を開けるらしい。
つまるところ、月が天頂に昇ったこの時間は誰もが寝静まっている時間であり、起きているのはせいぜい夜警の兵士達や、酒におぼれた連中くらいのものだろう。
「……偶にはこういうのも悪くは無い」
人っ子一人おらず、衣擦れの音すら聞こえてきそうな程の静寂の中を一人歩きながら、テミスは静かな笑みと共に言葉を零す。
ロロニアたち湖族の店での宴は大いに盛り上がり、テミスのロロニアの大釣果の殆どが、湖族の者達や偶然居合わせた客の胃の中へと消えていった。
だがテミスの片手には、店主とロロニアの強かな計らいにより、テミスの作った天ぷらの大きな包みが握られており、曰くこれを手土産に持ち帰れば、フリーディアたちの悋気も幾ばくかは静まるらしい。
「寿司折を持って家路につく旦那の気分だよ」
ゆらゆらと揺れる天ぷらの包みにふと視線を向けると、テミスは苦虫を噛み潰したような気分でぼやきを零す。
外で飲み歩いた親父たちの手土産。あれもきっと、家で帰りを待つ者達へのある種の賄賂であり、怒りややっかみを逸らすための方便だったのだろう。
よもやこんな場面で気付かされるとは露にも思ってはいなかったが、かつて視界の端で揺れていたあの包みが、酒のみ親父たち必携の防護武装だったのだと思うと、魂の片隅に焼き付いたあの煌びやかな景色も、少しばかり違ったものに見えてくる。
「ハっ……!? 馬鹿な。何を言っているんだ私は」
そこまで思考を巡らせて初めて。テミスは自身が外で飲み歩いて帰路に就く親父だというのであれば、家で帰りを待つ者の役を担う……つまりはこの包みを受け取る者がフリーディアである事に気付き、慌ててぶんぶんと激しく首を振った。
いくらくだらない妄想とはいえ、あんな幸せな思考回路を持った奴を相手にそのような発想に至る事こそが恥そのもの。
「チッ……!! 酔っ払ったか? そんな馬鹿な。ゲルベットから戻って以来ずっと調子は戻っている。今更酒などで酔うわけがない」
額に手を当てて自らの調子を確かめながら、テミスはフラリと体勢を傾がせると、ブツブツと早口で己が思考に言い訳を並べたてる。
けれど、思考はいたって冷静。意識も霞がかかっている事など無く、酒に酔っているあの独特の感覚は微塵足りとも感じられない。
それはつまりテミスの調子が万全であることを示しており、何ら問題では無い。
だが今だけは、問題が無いが故にこそ、正常であるくせに自身の思考があんな反吐にも似た妄想を垂れ流したという事を証明してしまう棘になってしまう。
「ああああああ……!!! 何という不覚ッ! まさかこの私が……!! クッ……!!」
改めて突き付けられた事実に、テミスは頭を抱えて悶絶すると、傍らの建物の塀に額を寄せてうめき声を漏らした。
もしも許されるのならば、この壁に頭を打ち付けて記憶を消し去りたい所だが、そんな事をした所でただ騒ぎになってしまうだけで、何の解決にもならないだろう。
冷静であるが故に。テミスは己が内の衝動を抑え込みながら、込みあげた吐き気が過ぎ去るのを待つ酔っ払いのように、内から湧き出る恥辱に耐え忍んでいた。
その時だった。
「…………」
カカッ……!!! と。
テミスが頭を預けている壁に、軽い音を奏でながら一対の短剣が突き立った。
その柄は僅かに上を向いており、短剣が上方から投げ付けられたものであることを物語っている。
だが、テミスは壁に額を預けた格好のまま微動だにする事は無く、ただ鋭い視線で壁に突き立った短剣をチラリと視線を向けた。
柄に装飾は無い、露店で売っているような簡素な造りの短剣。拵えは荒く、数打ちの安物である事は一目瞭然。
襲撃者は騎士ではない。ロンヴァルディアとヴェネルテイの戦争に乗じた野盗の類か、それとも……。
「フム……」
刃を投げつけられて尚、冷静に思考を巡らせながら、テミスはだらりと下げた右手をゆらりと腹の前へ移動させる。
今この背中には目立つうえにかさばる大剣は無い。だが、腰にはしっかりと一振りの刀が提げられており、町中での戦闘ならばむしろこちらの方が扱いやすいと言えるだろう。
ともあれ、まずは敵の目的を探る必要があるな。ならば撃退よりも捕縛が優先か。
そうテミスが、胸の内で自身の行動指針を定めた時だった。
「動くなよ? なぁ……騎士様ァ。いけねぇなぁ……こぉんな夜遅くに酔っ払っちまってさァ……」
「油断をするなよ。酔っ払い相手とはいえその制服……白翼騎士団だ」
「白翼ゥ? クハハハッ!! 早速大当たりって訳だ!!」
塀に額を預けたままのテミスの首筋に、ピタリと冷たい刃が当てが割れると同時に、背後に突如として湧き出たかのように人の気配が生じ、二人の男の声が響いてくる。
「…………」
「おぉっと動くなっての。へへ……まぁずは武装解除だ」
敵は二人。
否。あと数人は潜んでいるか?
間近で響く下卑た声を聞きながら、テミスは静かにそう分析をすると、自らの視界の内へと伸びてきた腕を冷ややかな目で見据えたのだった。




