1879話 港町の日常
一方その頃。
ロンヴァルディア側の最前線の町フォローダは、そこかしこを騎士やら軍人やらが歩いていたりと物々しい雰囲気が漂いながらも、明るい喧噪に包まれていた。
そんな中を、簡素な釣竿を担いだテミスは一人ゆったりと歩き抜けると、人気のない海岸へと足を踏み入れた。
ここは先日、テミス達が帰還を果たした軍港とは異なり、この湖へ漁に出る者達が用いる漁港で、日が高々と昇った今の時間帯は程よい静寂の中を押し寄せる波の音が響いている。
「くぁ……」
港に停泊している船の間を迷う事無く歩き、波止場の端まで辿り着いたテミスはおもむろに腰を下ろすと、大きな欠伸と共に釣竿を振って湖へと糸を垂らす。
先日の戦闘から帰還してから数日。
ノラシアスとユナリアスは戦後処理や前線の偵察などの軍務に奔走し、フリーディアも二人を手伝って政務に励んでいた。
しかし、フリーディア率いる白翼騎士団は、団長であるフリーディアが指揮所に詰めている所為もあり、これといった任務を言い渡される事もなく暇を持て余しているのだ。
だが暇を持て余しているからといって、指揮所やノラシアスの屋敷でぼんやりゴロゴロとしていると、フリーディアからは恨めし気な目で睨み付けられ、ユナリアスからは助力や助言を求められてしまう。
故にテミスはこうして、日中は二人から逃げ出すようにぶらりと町へ繰り出して時間を潰していたのだが、ふと立ち寄った雑貨屋でこの釣竿を見付け、糸を垂らすのが日課となっているのだ。
「……平和だな」
穏やかなさざ波の音に耳を傾けながら、何を考えるでもなくぼんやりと水平線を眺め続ける。
そんな緩やかな時間を堪能しながらテミスは呟きを漏らすと、竿を引いて張りを引き上げ、いつの間にか消え失せている餌を付けては再び竿を振る事を繰り返した。
この場所には大して足繁く通った訳ではないが、この釣竿を手に入れてからの釣果は未だにゼロ。
釣りの道具たちは剣や防具ほど高価だった訳ではないが、一式揃えるのには酒場を三軒ほどはしごできる程度の金はかかっている。
だからという訳ではないが、せめて次の出撃までに一匹……いや、数匹程度釣れて欲しいものなのだが……。
「んぁ~……」
待てど暮らせど、テミスの携えた竿先がビクビクと蠢く事は無く、ただ波の音に合わせて微かに上下しているのみで。
思い返せば、別段釣りなんて趣味にしていた訳ではないし、この釣り具一式も、港町であるフォローダで釣り竿を見かけたからというだけの理由で揃えただけのもの。
ならば釣れなくても仕方は無いか……。こうしてフリーディア達から逃げる事が出来ているだけでも十分だ。
驚くほど緩やかに過ぎていく時間の中を噛み締めつつ、緩み切った思考の中でそんな事を考えていた時だった。
「オウ。どうだい? 調子は」
「…………。んん……?」
突然背後から響いた若い男の威勢のいい声に、テミスは一拍の間を置いてから、釣り糸を湖へ垂らしたままだらりと背を反らせると、視界の中に見覚えのあるロロニアの顔が逆さまに入ってくる。
「……見ての通りだ。ボウ……一匹も釣れんよ」
「カハハハッ! ボウズかよ! 戦場じゃ大活躍でも、釣りはからっきしらしい」
「うるさい。どうせただの暇潰しだ。それよりロロニア。何でお前がこんな所に?」
テミスは一瞬だけ言い回しを考えたものの、どうやらそれは徒労だったらしく、快活に笑い飛ばしながらロロニアは、ゆらりと姿勢を戻したテミスの隣へ腰を下ろす。
だが、湖族の頭目であるロロニアが、偶然こんな所をほっつき歩いていたなどという訳は無く。
吐き捨てるように話題を動かしたテミスは、傍らのロロニアへ視線を向けて問いかけた。
「別に。漁港の連中から、見慣れない女が連日釣竿を垂らしてるって聞いてね。話を詳しく聞いたら、どうもアンタらしいってことでご機嫌伺いに来たのさ」
「クク……怖い怖い。だが、咎められる謂れは無い筈だが? ここには門番も立っていなかった。漁師以外立ち入り禁止という訳ではなかろう?」
「勿論だとも。深い意味なんてねぇ。ただ顔見に来ただけだよ……って、オイオイ。これじゃあ釣れる訳ねぇよ。針がデカ過ぎらぁ」
のんびりと言葉を交わしながら、片手を差し出したロロニアの仕草に従ってテミスが釣竿を渡すと、喋りながら糸を引き上げたロロニアが顔を顰めて声を上げる。
その先には、餌の消え失せた人差し指ほどの大きさの針がゆらゆらと揺れており、傾き始めた日の光をキラキラと反射していた。
「フゥム……そうなのか? 別段知識がある訳でもないからな。適当に買い揃えただけなのだが……」
「ったりめぇよ。こんなデカイ針使うなんざ、船で沖に出た時くらいだぜ」
「そうだったのか……。クハハッ! という事は私は今まで、ただ魚に餌をやっていただけという訳だ!!」
突き付けられた事実に、テミスは可笑しくなって笑い声をあげると、波止場から湖へ向けて投げ出していた足をばたつかせる。
まさしく知識不足が故の致命的な失敗。
そのような失態を犯したというにもかかわらず、この穏やかな時の中では誰一人怪我を負う事も、命を失う事も無くて。
「あぁ……良いなぁ……!! 平和というのは。実に素晴らしいッ!!」
これまでの自身の行為が全くの無駄であったというのに。
テミスは胸のすくような清々しさを覚えると、暮れ始めた日に向けて高らかに叫ぶ。
「っ……! おかしな奴だな。なぁ……明日も来るのか?」
「ふふっ……どうするかな。出撃命令が無ければ暇ではあるが……」
「だったら明日もここへ来な。釣り道具全部持ってよ。いつも通りの時間で構わねぇ。俺が釣りってモンを教えてやらぁ!」
そんなテミスに、ロロニアは静かに目を見開いた後、勢い良く立ち上がって自信に満ちた表情を浮かべると、自らの胸を叩いて告げたのだった。




