1870話 慈悲無き処断
ギシギシと板の軋む音を響かせ、殿を務めたテミスが船を移り終えると、船の間に渡された橋代わりの板が即座に外される。
その向こう側では、つい先ほどまで恐怖に呑まれていた筈の兵士たちが船べりに集まり、物欲しげな表情でテミス達の乗る船に視線を向けていた。
意外な事に、テミス達が船を移る間も周囲を取り囲む他の戦艦から砲撃が加えられる事は無く、湖にはさざ波の音だけが穏やかに響く平穏が漂っている。
「……フゥ。やれやれだな」
カチン。と。
船を移り終えたテミスは、肩に担いでいた大剣を静かに背中の鞘へと納めると、静かに息を吐いて言葉を零す。
結局最後まで、ヴェネルティの兵達が最後尾で睨みを利かせるテミスに攻撃を加える事は無く、ただ手にした武器を握り締めて竦み震えていただけだった。
つまるところ、彼等には己が口にしたような価値は無く、ただ兵士という職務についているだけの、傭兵に過ぎなかったという訳だ。
「本当に……お疲れ様。あれだけの数を前に煽り立てるものだから、見ていて肝が冷えたよ。もしも彼等が本当に襲い掛かってきていたら、どうするつもりだったんだい?」
「そうはならないさ。だが……ウム、もしも彼等が真の兵士だったのならば、彼等の誇りに唾を吐きかけた私には、戦いに応じる義務がある。こうして無事ではいられなかっただろうな」
そこへゆっくりと歩み寄ったユナリアスが穏やかに声を掛けると、テミスはクスリと不敵に微笑んだ後、未だに自分達を眺め続けるヴェネルティの兵士たちを一瞥して答えを返した。
「まさか……見抜いていたのかい? 彼等の本当の心を」
「いいや。決めつけていただけだ。得てして利得や権利をこれ見よがしに振りかざす者ほど、いざ義務を突き付けられた時は逃げ出すものだとな。私はその手の連中が、反吐が出る程に嫌いなんだ」
「でもテミス、今回は見逃してあげたじゃない。私、嬉しいわ。貴女が敵を赦す日が来るなんて……」
驚きを隠す事無く問いを重ねたユナリアスに、テミスは大仰に肩をすくめてみせる。
事実。ヴェネルティ兵の独善的な言動の数々には腸が煮えくり返っていたし、どろどろとした怒りが胸の内を支配していた。
けれど、そんなテミスの側へ不意に歩み寄ったフリーディアが、涙ぐみながら会話へと入ってくる。
しかし、その言葉はどうしようもないほどに的外れで。
テミスはあまりに能天気なフリーディアの考え方に、呆れ顔で溜息を零すと、少しづつ遠ざかっていく巨大戦艦を眺めながら静かに口を開いた。
「赦す……? 一体お前は、何の話をしているんだ? フリーディア」
「えっ……? だって……テミス貴女、ヴェネルティの兵士たちを殺さなかったじゃない」
「あぁ。そうだな。だが見ろ」
「……?」
言葉と共にテミスは巨大戦艦の中ほどを指差すと、フリーディアとユナリアスは揃って首を傾げながら、素直に示された場所へと視線を向ける。
そこでは、ちょうど最後の一隻らしい脱出艇が、巨大戦艦を離れて出発したところで。
「脱出艇……? あれがどうしたのよ? 確かに最後の一隻みたいだけれど、別に私達が居なければ……」
「クク……それはどうかな?」
「ッ……! まさか……君……!!」
テミスに示された最後の脱出艇を見て尚、フリーディアは首を傾げて問いを重ねるが、その隣で素早く周囲へ視線を走らせたユナリアスは、一足先に真意に気付いたらしく顔色を変えて言葉を震わせる。
「何? ユナリアス。何に気付いたの?」
「……恐ろしい。本当に恐ろしい事をするね、君は」
「ユナリアスッ!」
「麗しの我が友に、説明をしてあげても構わないかい?」
「クク……好きにすると良い」
一人理解が追い付いていないフリーディアが問いを重ねるが、ユナリアスは引き攣った笑顔を浮かべて揺れる視線をテミスへ向けると、震える声で静かに言葉を紡いだ。
そこで漸く、フリーディアも不穏すぎる気配を察したのか、ユナリアスの肩を掴んで声を荒げると、責めるような視線でテミスを睨み付ける。
こうなったフリーディアを止める術は無く、それを良く知るユナリアスの形式的な確認にテミスは頷きを返し、悪い笑みを浮かべながら船べりへと背を預けた。
同時に、十分に巨大戦艦から距離を取ったロロニアの船は、徐々に速度をあげてフォローダへと向かい始める。
「いいかい、フリーディア。船には航行可能な状態を維持するための、収容限界というものがある。けれど、重たい砲弾や装甲を有する戦艦には、元よりあまり余裕はない。特に、遠征の任に就いていた船なんかはね」
「っ……!!! まさか……!! でもッ……! それなら、砲弾とかの積み荷を棄てればッ……!」
「私でもその判断はしないかな。敵船が引き返してくる可能性もある以上、武装を棄てる事はできない。更に、救助で人数が増えているのだから、他の物資にも余裕はないだろう」
「ッ……!!!! ……って、事……は……!!」
静かな声でユナリアスが説明をするたびに、テミスの意図を理解したフリーディアの顔が徐々に青ざめていく。
そう。
テミスは何も、憎たらしいヴェネルティの兵たちを見逃した訳ではない。
ただ、たったひとかけらの誇りや矜持も持たず、放っておいても死ぬような連中を、わざわざ労力をかけて殺してやる必要も無いと判断しただけ。
「そうだね。勿論、ヴェネルティも改めて救助には向かうかもしれないけれど……。重たい船は戻る足も遅いし……あそこは最前線だ。たとえ戻ってきたとしても、あの沈んだ船に、どれだけ食いつなげるだけの物資が残っているか……」
「っ~~~~!!!! テミスッ!!! 貴女ッ!!!!!」
告げられた残酷極まる現実に、フリーディアは声なき悲鳴をあげると、滾る怒りに顔を歪めて、感情の迸るままにテミスへと掴みかかったのだった。




