1869話 真兵ならざる者
自らの命惜しさに戦場から逃げ出す兵士など必要無い。
否。そのような者は、もはや兵士とすら呼ぶべきではないのだ。
命懸けで自国のために戦う事を生業とする兵士という職にある限り、国益のための作戦は自らの命をも上回る価値を持つ。
故に、敵前逃亡は死罪と定める国も存在し、だからこそ今テミスの目の前で怒り狂うヴェネルティの兵達の感情は正当なものなのだろう。
だが、一度捕虜とした以上、テミス達には彼等の命を保護する義務が生まれる。
その定めこそ、戦場という暴力が支配する世界の中で、兵士が獣ではなくヒトであると証明できる唯一の手段だ。
「彼等は我々白翼騎士団が管理する捕虜だ。手出しはご遠慮願おうか」
「ウルセェッ!! この裏切り者共がッ!! 絶対に……絶対に許さねぇ!!」
怒りを滾らせながら、猛る兵士は鬼のような形相で捕虜たちを睨み付けると、小さなナイフを引き抜いてテミスの刻んだ線を踏み越えた。
それに呼応するかの如く、死屍累々の有様だったヴェネルティの兵士たちが次々と立ち上がり、憤怒の形相を浮かべて剣を構える。
『裏切り者』。一番槍を飾った彼の言葉こそが、ヴェネルティの兵士たちの怒りの根源を体現しているのだろう。
彼等はいわば、共に厳しい訓練に身を投じ、国の為に戦いという名の殺しの技術を身につけた同志だった。
一度は同じ志を抱き、国の為に踏み止まった彼等の心情は察するに余りある。
「あぁ……その怒りは正しい。だがな……私は言ったはずだ。その線を越えたこちら側は戦場だと。そして遊びは終わりだと」
「っ……!! がッ……ぁ……!?」
だがそれでも、彼等の敵であるテミスが彼等の怒りを慮ってやる理由は無い。
よってテミスが眼前の敵を見逃してやる道理もなく、ゆらりと鎌首をもたげた左手が鋭く閃き、一直線に捕虜たちへ向かって歩みを進める兵士の首を掴みあげた。
元よりテミスの動きを躱す術を持たない兵士は、辛うじて両手で自らの身体を持ち上げて抵抗する事しかできず、取り落としたナイフが虚しくテミスの足音で音を立てる。
「誇るが良い。私という決して勝ち得ぬ相手を前にして尚、心折れる事無く投降を拒んだお前達は立派な兵士だ。だが私はお前達の敵だ。故に私にできることはただ一つ」
「カッ……ァッ……グッ……ゾ……!!!」
「敬意を以て、全力で殺してやる。優秀な兵士であるお前達が死ねば、ロンヴァルディアの民の安寧に繋がるのだ。己の覚悟を誇りながら死んで行け」
「ッ――!!! ヒッ……止めッ――!!!」
テミスは低い声で朗々と言葉を紡ぎながら、兵士を掴み上げた腕にピタリと大剣を添わせると、クスリと皮肉気に口角を吊り上げた。
その刃に込められた濃密な殺気は、兵士の身体を衝き動かしていた怒りと、国を想う心を打ち砕くには十分過ぎるほどで。
一瞬で恐怖に飲み込まれた兵士が、命乞いの言葉を発する刹那。
欠片ほどの慈悲も無く振るわれた大剣の刃が兵士の首を刈り取ると、ぶしりと血の滴が宙を舞う。
だが、首を掴んだテミスの金剛力によって飛散する血の飛沫は最小限に抑えられ、ごとりと重い音を響かせて切断された頭部が甲板へと落ちた。
「……もう遠慮する必要は無いんでな。何やらグチャグチャと喧しいご高説を垂れてくれたよなぁ? 正規兵諸君」
「ッ……!! う……あ……ぁぁ……っ……!!」
「正直、聞くに堪えない傲慢な戯れ言だったが……なるほど、己が胸に宿した信念故の自負ならば理解できる。喜べ。お前達の誇りと責務を示す時が来たぞ」
傲岸不遜な微笑みを浮かべたテミスは、身体を硬直させたヴェネルティの兵達を見据えてそう告げると、自らの手に残った首無しの死体を緩やかに放り投げる。
テミスの握力から解き放たれた死体は、首の切断面から大量の血を噴き出しながら放物線を描き、ドサリと重たい音を立てて甲板の上へと落ちた。
しかしそれでも、恐怖に縫い留められたヴェネルティの兵達はその場を動く事が出来ず、ただガタガタと震えている事しかできなかった。
その間にも、テミスの後ろでは着々と移送作業が進められており、隣接したロロニアの船から渡された長い板の上を、捕虜たちが一人、また一人と渡っていく。
「……やれやれ。見込み違いか。どうやら、ひとかけらとはいえ真に兵士と呼べる覚悟を持つ者は、コイツだけだったらしい」
しばらくの沈黙の後。
テミスは小さなため息と共にそう零すと、静かに目を細めて視線を首無しの死体へと向ける。
国に命を捧げた兵士にのみ許される、傲慢という名の究極の特権。それは己が命を手放し、国家の一部となったが故のもの。
己が命を顧みる事の無い兵士が如何に精強であるかなど語るまでもなく、真に自身の命を礎とする覚悟を持つ兵士が百も居れば、如何にテミスといえど決死の覚悟を以て挑まねばならない上に、決して無傷では済まないだろう。
だが、命を武器と化すなどという狂気の所業などそう簡単にできる事ではない。
そうして生まれるのが、ありもしない覚悟を騙り、究極の蜜たる特権だけを啜らんとする醜悪な詐欺師共だ。
「見下げ果てた連中だ。兵士ですらないゴミなど、私が斬ってやるまでもない。後生大事に抱えたその残り短い命、せいぜい噛み締めてから醜く死んでいけ」
冷たい光を宿した瞳で、テミスは未だに動かないヴェネルティの兵士たちを見据えてそう吐き捨てると、手にした大剣で真一文字に空を薙いだ後、肩に担いでその身を翻したのだった。




