1867話 希望無き死線
突如として放たれた予想外の一閃に、駆け出しかけていたヴェネルティの兵士達は、揃って凍り付いたかのように足を止める。
そんな兵士たちの眼前で、テミスはユラリと振り抜いた大剣の切っ先を持ち上げると、皮肉気な笑みを浮かべながら肩へと担ぎあげた。
「なっ……にしやがるッ!! 危ねぇじゃねえか!!」
「お前ッ……! さては抜け駆けしようとしているんだな!? ふざけるなよっ! 勇者サマ本人ならば兎も角、名声にあやかっているだけの腰ぎんちゃく風情がッ!! 船からの脱出は当然ッ!! 俺達正規兵が優先だッ!」
大剣を手にしたテミスを前にして尚、ヴェネルティの兵達は申し訳程度に帯びている武器すら抜く事なく、怒りに任せて口々に叫をあげ始める。
その主張も聞いているだけで癇に障るほど身勝手極まるものだったが、テミスが表情を崩す事は無く、悠然と一身に罵声を浴び続けていた。
そうしてしばらくの間、ヴェネルティの兵士たちに好き放題叫ばせた後。
「…………」
叩き付けられ続ける怒声を切り裂かんとして居るかの如く、テミスは黙したまま見せ付けるように大剣を振り上げた。
するとその瞬間。それまで口々に文句を叫び続けていたヴェネルティの兵士たちは一様に口を閉ざし、隣の者の声すら聞こえないほど喧しかった場が一気に静まり返る。
「……ハッ! 何だよ。その剣はよォ……あぁ? 俺達を脅そうってのか? んなコトして本国へ戻ったらどうなるか……わかってんだろォなぁッ!?」
僅かな静寂の後。
あくどい笑みを浮かべた一人のヴェネルティ兵がテミスの刻んだ線を踏み越え、威勢のいい啖呵を切ってみせた。
だが……。
「警告だ。今戻れば見逃してやる。その線は境界線。越えた者は戦場へ足を踏み入れたと見做して即座に叩き切る」
「っ……! ワケのわからねぇことを――ブぺッ!!?」
静かな声で告げたテミスに、進み出た兵は眉を吊り上げて目を剥くと、威圧するように肩を揺らして更に一歩歩み寄る。
刹那。
鈍い空を裂く音が響くと同時に、バチンと肉を叩く痛々しい音が響き渡り、歩み出た兵士が再び線を越えて吹き飛ばされた。
その様子を見つめていた他の兵士たちは驚きに息を吞み、テミスの大剣の腹で叩き返された兵士へ一瞬だけ視線を向けた後、再び驚きの目をテミスへ戻す。
「悪いが……あの船はお前達の国へ帰る船じゃない。フォローダ行きだ。だがそれでも、捕虜としての乗船を希望するのならば、幾ばくかは考えてやらん事もないぞ?」
動揺するヴェネルティの兵士たちの視線が集中する中。
テミスはニンマリと頬を吊り上げて悪魔のような笑顔を浮かべると、朗々とした声で皮肉を込めて言い放った。
とはいえこの降伏勧告も、どちらかといえば挑発と同義。
武装に差があるとはいえ、ヴェネルティ兵士たちに比べてテミス達は圧倒的に数で劣っている。
そんな場所で敵であることを声高に宣言すればどうなるかなど、火を見るよりも明らかだろう。
「ッ……!! 敵……!?」
「まさかっ……侵入者ってコイツら……!!」
「へ……へへ……!! 馬鹿だぜこいつ……! どれだけ人数に差があると思ってやがる! お前等! コイツらぶちのめして船ェ奪うぞ!!」
テミスの宣言に、動揺の覚めやらぬヴェネルティの兵士たちは口々に言葉を交わし始める。
だがその中でもただ一人。
先程テミスに叩き返された兵士が鼻血を流しながら立ち上がると、腰に佩びていた短剣を抜き放って荒々しい叫びをあげた。
「クク……」
目の前に突然現れた希望と栄光。
そのあまりの眩さに、周囲で戸惑いを見せていた兵達も次々と抜剣し、猛る兵士の叫びに呼応するかの如く、雄叫びをあげながらテミスの刻んだ線を超える。
けれどテミスは、不適に微笑みを浮かべたまま静かに前を見据えていた。
彼等の希望が成就する事は万に一つもない。
たとえこの船の上で、人数に物を言わせてテミスを倒す事が叶ったとしても、船にはサキュドたち黒銀騎団の精鋭が控えている。
恐らく誰一人としてロロニアの船に辿り着く事すら出来ず、鎧袖一触に殲滅されるだろう。
「哀れだな。だが……死に方を選べるだけマシというものだ」
「ウォォォオオアアアアアッッッ――ッ……!!! ガッハァッ……!!?」
どむん。と。
テミスは誰に話しかけるでもなくそうひとりごちると、溢れる鼻血をまき散らしながら先陣を切って飛び込んできた兵士の腹に、固く握り締めた拳を叩き込む。
強烈なテミスの一撃を受けた兵士の身体はその場で動きを止め、甲板を力強く蹴り駆けていた両足が僅かに宙へ浮いた。
直後、テミスは素早くその場で身体を回転させると、宙に浮いた兵士の身体が甲板へと着地するよりも早く、回し蹴りの要領で兵士の身体を蹴り飛ばす。
すると、くの字に折れ曲がっていた兵士の身体は、まるで蹴り飛ばされたサッカーボールのような勢いで吹き飛び、背後に続いていた他の兵士を巻き込んで盛大に吹き飛んでいく。
「幾らでもかかってこい。唾棄すべきクズ共とはいえ、仲間の攻撃で吹き飛ぶのも、置き去りにされて餓死するのも辛かろう。せめて華々しく戦いの中で……敵が屠ってやる」
けれどテミスは、自らが吹き飛ばした兵士には一瞥たりともくれる事無く、携えていた大剣を傍らの甲板へと突き立てると、拳を構えて更に向かってくる兵達に向けて猛々しく吠えたのだった。




