1866話 脱出の狼煙
不完全ではあるが、今この場で出来得る限りの準備は整った。
そう判断したテミスは、フリーディア、ユナリアス、そして交渉を持ち掛けてきた兵士へと順番に視線を向けると、静かに頷き合う。
意識を失っているユウキの仲間三人はそれぞれ、兵士が戦士を、ユナリアスが大人びた魔法使いを、そしてフリーディアが幼さの残る魔法使いを担ぎながら、自失したユウキの手を牽く。
これでお荷物を運んでいる者達は戦力に数える事はできず、戦う事が出来るのは実質テミス一人のみ。
だがそれでも、ユウキたちを連れて行くという前提で考えるのならば、これ以上の布陣は無いだろう。
「ククッ……始めるぞ」
静かに一言前置いてから、テミスは空に向けて掌を翳すと、自身の内で魔力を練り上げて合図代わりに火球の魔法を放った。
放たれた火球が空で花火のように炸裂したのを確認した後、テミスはそのまま掌をロロニア達の船へと向け、更にもう一発火球を放つ。
無論。この合図は事前に取り決めをしておいたものではなく、テミス達の作戦もロロニアの船に残った者達には共有されていない。
ともすれば、こちらの意図が伝わらず、無駄に敵の注意を引いてしまうだけに終わる可能性もある。
だが……。
「フッ……流石だ。少し慎重が過ぎるのはロロニアの指示かな……?」
即座にロロニアの船から小さな影が飛び立ち、自分達の方へと向かって来るのを確認すると、テミスはクスリと微笑みを浮かべて呟きを漏らした。
そうしている間にも、飛来した小さな影はテミス達の元へと到着し、カツンと硬質な音を奏でて巨大戦艦の甲板へと降り立つと、そのままテミスの足元に跪まづいて口を開く。
「ご指示を。アタシが部隊へ伝達します」
「ご苦労。サキュド。ロロニアに船を寄せるように伝えてくれ。移送要員五名。拘束の必要はないが監視は付けさせろ」
「ハッ……! アタシたちは如何いたしますか? コルカ達は戦闘態勢にて待機しております」
「移送時は無防備だ。コルカ達は船体防御。反撃はサキュド、お前達に任せる」
「アハぁッ……!! ッ……!! 失礼致しました。任務了解。伝達します」
恐らくは傍らに交渉を持ち掛けてきた兵士やユナリアスが居た為だろう。
サキュドは普段のそれとはまったく異なるお堅い口調でテミスと言葉を交わすが、最後には堪え切れなかったのか、喜色の溢れる狂笑を漏らして再び飛び立っていく。
作戦の詳細までを伝える事こそできなかったが、サキュド達ならばきっと十全な働きをしてくれるはずだ。
「これであちらは問題無い。あとは……先にこちらを片付けるとするか。お前達は私の後ろへ下がれ」
小さなサキュドの背中を見送りながら、テミスは満足気に頷きつつ嘯いた後、クルリと身を翻して船の端へ背を向けると、おもむろに背負った大剣の柄へと手を伸ばす。
その視線の先では、テミスの放った合図を見たヴェネルティの兵士たちが、期待と疑問が綯い交ぜになった表情を浮かべてテミス達の方へと向かってきていた。
「なっ……ぁ……今……子供が……飛んで……ッ!? アンタ……一体……?」
そんなテミスの傍らでは、黙って指示に従うユナリアスとフリーディアを横目に、戦士を担ぎ上げた兵士が愕然とした表情で言葉を詰まらせる。
この時点で、テミスの指示に従っていないこの男は、黒銀騎団の者であれば厳しい叱責に晒されるのだが、もとはヴェネルティの兵である彼にそこまでも止めるのは酷な事だろう。
テミスは戦いの前の僅かな時間でそんな事を考えながら、不敵な笑みを称えて数歩だけ船の内側へと歩を進めた。
そして。
「おおっ!! やっぱりだ! 合図だったんだ!! 船がこっちに来る!! 助かるぞ!!」
テミス達の背後で、ロロニア達の船がゆっくりと動き始めると、前方から駆けてくるヴェネルティの兵達の間から歓声が上がる。
しかしすぐに、ヴェネルティの兵士達はまるで彼等の前に立ち塞がるかのように仁王立ちするテミスを見止めると、次第に駆ける速度を落としてテミスの前に雁首を揃えた。
「さっきの信号弾、お前が撃ったのか? ……というか、見ない軍服だな。お前達、もしかして勇者サマのツレか?」
「勇者サマだって? ハハッ! コイツはツイてる! 今から脱出するんだろ? なぁ、俺達も乗せてくれよ! 良いだろ!?」
黙したまま動かないテミスに、希望に顔を輝かせた真正面の兵が問いかけると、それに呼応して周囲の兵達も歓声をあげ始める。
けれどテミスは勝手に喜び合うヴェネルティの兵達を前に、胸の内に灯った怒りにピクリと目を吊り上げただけだった。
テミスとしては、その問いに正しく答えてやる必要は無いし、むしろこちらの船に引き込んでから殲滅するのが賢いやり方だ。
だが、こいつ等はユウキ達を放り出して戦わせていた癖に、都合の良い時だけこうして旨味を吸おうとしている。
無論、一兵卒である彼等に決定権は無く、上からの命令に従っただけなのかもしれないが……。
「……気に入らんな」
ロロニアの船が間近にまで迫り、喜びに目を輝かせたヴェネルティの兵士たちが、一斉に船の端へと駆け出しかけた瞬間。
テミスは低い声でボソリと呟きを漏らすと、一気に背中の大剣を抜き放つと、甲板の床に一本の線を描くように振り抜いたのだった。




