174話 守りたいもの
「反射」
「な――」
次の瞬間。テミスの体を凄まじい衝撃が貫き、瞬時に視界が白く染まった。
「ガッ……ハッ……コヒュッ……」
――何が起きた?
呼吸ができない……。っ……痛い。
「っ――っ…………! ――!!!!」
声すら出せぬ絶叫を上げながら、テミスはその耐えがたき激痛に地面をのたうち回った。
「フン……」
しかし、そう感じていたのはテミス本人だけで……。
ドロシーが冷ややかな視線を向けた先では、轟音と共に吹き飛ばされたテミスが、微かにその体を揺らしていただけだった。
「私は……負ける訳にはいかないのよ」
静かに呟くと、ドロシーはゆっくりと倒れ伏すテミスの方へと歩き出す。
――危なかった。まさか神速とはいえ、最後の一撃があそこまで強力だとは思わなかった。
「確かに、追いきれない速さ、護りきれない速さで打ち込まれればひとたまりもないわ。けれど、貴女は一つだけ見誤った」
微かに蠢く黒い甲冑の傍らに立つと、ドロシーは静かに語り始めた。
「あの一撃……私が何も対策をしていなければ、今こうして立っているのは貴女だったでしょうね」
「…………」
漆黒の甲冑が蠢き、その隙間からごぼりと赤黒い血が闘技場の地面へと滴る。鎧は辛うじて人の形を保ってはいるが、その中はきっと凄惨な事になっているのだろう。
しかし、ドロシーは自らの思考を無視すると、淡々とした口調で物言わぬ甲冑へと語り掛け続ける。
「速さとは諸刃の剣。故に今、私の魔法で全ての威力を弾き返された貴女は、こうして終わりを迎えている」
ドロシーはそこで言葉を切ると、何かを堪えるような顔でテミスを見下ろし、光り輝く剣を高々と振り上げた。
「悪いけど、私にも大切な物があるのよ。……さようなら。次に産まれてくる時はきっと……魔族に産まれる事ね」
そう物憂げな表情で告げると、ドロシーは光を放つ剣を振り下ろした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
……終わり……なのか……?
視界すらままならない激痛の中で、テミスの頭は何故か冷静に思考を続けていた。
最早目も見えず、音もまともに聞こえない。
恐らく私は……敗れたのだろう。
ハッ……存外早かったな……。
痛みの許容量を超えたのか……はたまた激痛そのものに慣れてしまったのか。痛みすら感じなくなった闇の中でテミスは自嘲する。
再三フリーディアが言っていた事だ。
力を以て悪を裁けば、いつの日かその刃は私の身を貫く……と。
それでも良い。
私は悪を切り裂く悪だ。それこそが……正義の本質なのだ。共食いを繰り返す悪の中で、最も世に有益とされたものだけが名乗る事のできる唯一無二の免罪符。
例え、道半ばで果てる事になったのだとしても、この世に生まれ出ずる悪を少しでも減らす事ができたのなら……。理不尽に苛まれ、悲しみにあえぐ人々を救えたのならば……本望だ。
あーあ。下らない。こうして死んだのならば、またあの神モドキの御許へ連れ出されるのだろうか?
テミスは何者かが傍らに立つ気配を感じながら、薄れゆく意識に身を委ねる。肉体がどうなったのか想像もしたくないが、私の意志に反して跳ねる肉塊が微かな痛みと共にカチャカチャと耳障りな音を届けてくる。
結局。私は何もかもが中途半端な半端者だったのだ。平和な世を望みながらも戦いに明け暮れ、決してその温もりを手にしようとしなかった愚か者……それが私だ。
だって……仕方ないじゃないか……。
戦わなければ守れないのだから……。
戦って繋ぎ止めねば、片端から綻んでほつれてゆく。その原因を切り捨てては繋ぎ直す事こそが私の役目……。
……結局。私が築いた平和は紛い物だったのだろうな。
声すら出ぬ喉でそう呟くと、ごぼごぼと不快な音だけが鎧の中に響いた。決着は付いた。悪を切れぬ正義に正義は無い。ならばもう、私が生き延びる意味など無い。
「――いけど、私にも大切な物があるのよ」
意識の端で、憎たらしい女の声が響き渡る。
先ほどから何やら音のような物は響いていたが、何故かそこだけが、壊れた私の脳裏に鮮明に響いてきた。
……大切な物。
正義。
平和。
ファント。
暗闇の中に白い光の柱が立ち上り、それが緩やかにテミスの喉元へと迫ってくる。
きっと、あれこそが終わりなのだろう。役目を終えた私を屠る断罪の刃。テミスは穏やかな気持ちでそれを眺めながら、この世界で育んだ大切な物を連想していく。こうして振り返ってみると、長かったように思える異世界の生活も、存外短いものだ。
ファントは……問題ない。
既に私一人が居なくても平穏が保たれるようにシステムは作り上げた。あとはただ、私が抜けたその穴に、軍団長と言う名の特記戦力が腰を掛けるだけで、あの素晴らしい町はこれからも続くだろう。
人々は笑い、町は賑わい……あの温かい宿屋で飯を食らう……。
「っ――!!」
マーサの宿屋を連想した刹那。何故かテミスの脳裏には悲惨な光景が映し出された。
気を病んだかのようにやつれたマーサに、死人のようにフラフラと歩むアリーシャ。何故かその傍らには沈痛な表情で店を回すフリーディアが居て……。
店の片隅には、ピカピカに磨き上げられた私の大剣がまるで墓のように突き立てられていた。
――ふざけるな。
……なんだこれは? 私が最期に見る光景が、こんな物だと……?
テミスは視えぬ眼を見開いて、音を発さぬ喉で叫びを上げる。
ふざけるな。こんな光景など認めはしない。
――アリーシャ達がこんな顔をするのなら、私が死ぬ意味が無いじゃないかッ!!
テミスは激情を燃やし、迫り来る光の刃をギラリと睨み付ける。
正義や悪だなどと論ずるまでも無い。あの底抜けに優しい二人が笑えないのならば、その世界は悪であるに決まっている。ならば、正義たる私の刃がその世界を切って捨てぬ理由など無い!!
……だが、どうする?
テミスは既に喉元まで迫った刃に視線を向けながら、チリチリと熱を発する思考にさらに負荷をかける。
体は既に死に体。まともに動く部位等無いし、立ち上がる事はおろか、指の一本すら動かすのは不可能だ。
ならば……捨て去ればいい。炎に身を投げる不死鳥のように。迫り来る死を超越する技を……お前は知っている筈だ。
加熱した思考の片隅で、聞き慣れた男の声が囁いた。
馬鹿な! あれは不死を望んだ魔王の技……。正義の技しか使えぬ私が発現できる訳が無い。
正義と悪か……。あの世界を目の前にして、まだそんな事を論ずる余裕があるとはな。ならば、ここで果てるがいい。
「っ――!!!」
男の声が消え去ると同時に、光の刃がゆっくりと私の喉元に食い込み始める。
そうだ。――正義も悪も無い。
私はただ……守りたいものを守るだけだッッ!!
目を見開いたテミスの視界が、途端に光に覆われる。無数の魔族の観客達に、遠くで目を見開いて叫ぶフリーディア。そして……私の喉元に伸びた光の剣を持ったドロシーの顔が、微かな愁いを帯びていた。
「燃え上がれ――不死の炎」
「なっ……!!」
しゃがれたテミスの声が響いた瞬間。
漆黒の甲冑から紅に輝く炎が噴き出し、ドロシーの白刃を圧し返したのだった。