1838話 居るはずの無い出迎え
「っ……!! ふっ……! ……よし!」
二本のロープを口に咥えたテミスは、水中へ放り込む錨に繋がれた巨大な鎖をよじ登ると、船体に開けられた僅かな穴からぴょこりと甲板へ首を出して周囲を見渡した後、するりと甲板の上へよじ登って小さく頷いてみせる。
その下には、自らの身体をロープへ結わえ付けたフリーディアとユナリアスが待機しており、今は二人共、ガクガクと恐怖で身を竦ませながら、不安定に揺れる鎖に身を預けていた。
「いくぞ……!! ぐっ……ぎぎっ……!!」
当然。
今もなおフォローダの町へ向けて航行中の船は時折揺れ動き、如何にフリーディアとユナリアスとはいえ、あのような場所ではさほど長い時間堪える事はできない筈だ。
だからこそ、テミスは渾身の力を込めて縄を引くと、二人をまとめて人気尚ない甲板へと引き摺り上げる。
「ッ……!! ハッ……! ハッ……!! ハッ……!!! 広いっ……! ユナリアス……! 今度こそちゃんとした足場よ!」
「ふ……はは……そうか……ついに辿り着いたか……」
「もう……! 生きた心地がしなかったわ……二度とごめんよ」
甲板へと引き上げてやるなり、二人は背合わせにその場にへたりこむと、未だに恐怖の抜けない引き攣った笑みを浮かべてぶつぶつと呟きを漏らした。
だが彼女たち自身、ここが敵地の只中であることは理解しているらしく、まるで頼りない格好ながらも、腰に提げた剣へと手を番えている所を見ると、辛うじて周囲へ意識は払っているらしい。
「……別に、それならば無理してついてくる必要は無かっただろう? それに、お前達を都度吊り上げないといけなかったからな。さほど無茶な道筋は辿らなかったはずだが」
「十分無茶よ。穿った装甲の上の次は小さな輪っか! その次は突き出た砲身に、挙句の果ては宙吊りの錨だなんて……それ以上の無茶があるのなら聞いてみたいものよ!」
「足場が在るだけマシだろう? 元々私は装甲を切り裂いて登るつもりだったのだぞ?」
「はじめて私、真面目に問いかけた私が馬鹿だったって思い知ったわ。そもそも装甲は容易く斬り裂けるものではないし、よしんば斬り裂けたとしても、それを伝って登ろうだなんて考え自体思い浮かばないのよ」
皮肉気な微笑みを浮かべながら、まるで当然であるとでも言わんばかりに語るテミスに、フリーディアは頭痛でも堪えるかの如く頭を抱えながら呻き声をあげた。
とはいえ彼女たち自身も、航行中の巨大戦艦の外側をよじ登るという選択を取り得る時点で、最早その思考は常人のそれからはかけ離れたものなのだが。
「ま……まぁ、言いたい事は嫌というほど理解できるけれど、今は後にしよう。どうやらこの場所は甲板のようだが……誰も居ないようだね?」
しかし。口喧嘩に応じかけるテミスを見て、ユナリアスは流れるような振る舞いで熱を帯び始めた二人の会話に割って入ると、見渡す限り広大な鋼鉄の大地へと視線を向けた。
恐ろしい程の広大さであるとはいえ、テミス達が今居るこの場所は甲板というよりほかは無く、船尾に近いという場所柄なのか、見張りの兵一人すら配置されてはいない。
「気にする事か? むしろ好都合じゃないか。そら、へばっていないでさっさと侵入口でも探しに行くぞ」
「ん、うむ……ひとまず動くべきだという意味では、その意見には賛成なのだが、先ほどあれだけ派手に爆撃を加えたというのに、甲板に人っ子一人居ないとは……いくらなんでも妙じゃないか?」
「そうよね。装甲を抜けなかったとはいえ、かなりの被害が出ているのは間違い無いわ。なら、この静けさは罠。既に気付かれていると考えるべきね」
「それが、だぁれも気付いていないんだよねぇ……これが。ある意味ではラッキーだったんだけどさぁ……」
「……っ!?」
「ラっ……えぇと?」
そこへ突如、聞き慣れない朗らかな少女の声が三人の会話に飛び込むと、告げられた言葉の意味を理解できなかったフリーディアとユナリアスが、驚きに目を見開きながら首を傾げてみせた。
だがただ一人。テミスだけは、突然投げかけられた言葉から、この朗らかな声の持ち主である少女が冒険者将校……ないしは、転生者である事を瞬時に察知する。
故に。瞬く間に背中の大剣へと掌を閃かせたテミスは、フリーディア達が気を引き締める前には既に身構えており、油断なく周囲へ気を張り巡らせた。
しかしそれでも、テミスが声の主の気配を察知することはできず。
「まぁまぁ、そんなに怒んないでよ。ちょっとそこで待ってて。今すぐにそっち行くから!」
「ッ……! チィッ……!!」
続けられた言葉から、テミスは遅れてここではない何処かから声を届けているのだと気付き、鋭い舌打ちと共に身を翻した。
だが……。
「もぉ……待っててって言ったじゃん。逃げないでよぉ」
「…………」
テミスが身を翻した方向へ、まるで先回りをしたかの如く響いていた声が移動すると、死角になっていた凹凸の向こう側から、長い紺色の髪を結わえた一人の少女が、悲し気な表情を浮かべて姿を現したのだった。




