173話 未来を見据える眼
……馬鹿な。
振り下ろした剣の先を見て、テミスが最初に覚えたのは驚愕だった。
ドロシーが妙な魔法陣を展開した瞬間。奴の動きが豹変した。だが……認めるのは業腹だがドロシーとて軍団長を張る程優秀な魔術師だ。その観察眼や吸収力は折り紙付きだろう。
しかし、それを加味して尚。今の動きは異常だった。
拮抗した力を持つ両者の間で、一度勢い付いた力の流れを退ける事はできない。それが戦闘ともなれば尚更だ。しかし、奴は剣を押し返すのではなく、その流れを変えた。盾の表面を微かに滑らせる事で力を横に逃がし、自らの体から白刃を逸らしたのだ。
その動きはいくら軍団長と言えども一朝一夕に身に付く技術ではない。血を吐くような努力と研鑽を積み重ねた先で得る事ができる、いわば奥義に属する技術だ。
それを何故……。ドロシーが使える……?
「ウフフフッ……お前のその表情が見れただけで胸がすく思いだわ」
苦い顔で睨み付けるテミスに、ドロシーが妖艶な笑みを浮かべて上機嫌に答えた。奴にとって私を出し抜いたという事実は、勝利の美酒のように甘美なのだろう。
「別にこのまま切って捨ててやっても良いんだけど……癪な事にお前とこうして戦わなければ私はこの力を得る事は無かったでしょう……」
「私が……与えた?」
「アッハッハッハ! その傲慢も今は心地良い囀りだわ」
互いに構えを解かぬまま、高笑いするドロシーにテミスは歯噛みした。
私がドロシーを強くしただと? 馬鹿な。奴は今の今まで苦戦し、危機に晒されたその身を庇う事に必死だったはずだ。それが何故、たった一瞬で状況がひっくり返っている……?
「だから、これは糧になってくれたお前への手向けとして教えてあげるわ。それを知る権利がお前にはある」
「ほう……?」
ドロシーはテミスを見下すような笑みを浮かべると、先程の高説の返礼とばかりに口調を真似て口を開いた。
「私が使ったのは降霊魔術を作り替えたもの。その効果は、かつての英雄や達人の知識を自らの知識として取り入れるのよ。だから、死霊術師扱いは勘弁してほしいわね」
「ハッ……要は虎の威を借る狐と言う事か」
テミスはドロシーの解説を鼻で笑うと、大剣の構えを下段に変えて深く腰を落とす。すると、それに対応したドロシーが盾を前に構えて姿勢を低くした。
……間違いない。今明かした魔法がどうであれ、奴は何かしらの方法で近接戦闘の経験を補った。
「――ならば……」
テミスは下段に構えた大剣を腰に当てると、抜刀術のような構えでさらに身を落とした。
奴が反応できない程に迅く。奴の経験では補えない程に迅くこちらの攻撃を叩き込む。
「――神剣」
ボソリとテミスの口が動き。次の瞬間。土煙と共にドロシーの眼前からその姿が掻き消えた。
「なっ……消え――!? いや……」
その光景にドロシーは一瞬だけ表情を崩すも、すぐに守りの構えを変えて周囲を警戒する。姿こそ捕らえられないが、この何かを擦るような音と舞い上がる土煙は、奴が高速で移動している証拠だ。
「ハハハッ! いくら速くなろうと、いくら肉体を強化しようと、いくら知識を補おうと全ては無駄だ」
風を切る音と共に、ドロシーの周囲からテミスの声が響き渡る。それは、まるで幾人ものテミスに取り囲まれているかの如く、四方八方から叩き付けられていた。
「くっ……落ち着け……これは好機よ……」
ドロシーは自らを鼓舞するようにそう呟くと、盾を構えて虚空を睨み付けた。
確かに私は、この速さについて行くことはできない。いくら強化魔法を重ね掛けしたとはいえ、元は魔術師の肉体。強制的に限界を超えたツケを考えるのであれば、この辺りが限界なのだ。
私にはまだやることがある。お前を倒したとしても、道連れにされる訳にはいかないのだ。
「っ……」
食いしばったドロシーの歯が悲鳴を上げ、滾る緊張がその体を固くした。
図抜けて強いとはいえ奴も人間……こんな高速機動を長く続けられる筈が無い。
「んっ……?」
刹那。ドロシーはピクリと肩を跳ねさせると、密かに一つの術式を自らの持つ盾に展開する。
もし私の推論が正しければ、この一撃で決着がつくだろう。
「くふっ……」
ドロシーは漏れ出そうになる笑いを押し殺しながら、静かにその時を待った。
勝算は十分。ただテミスの攻撃をこの盾で受ければ良いだけだ。
「……」
そんなドロシーの周囲を超高速で駆け回りながら、テミスはドロシーの集中が途切れる瞬間を待っていた。
決めるのは一撃のみでいい。この一撃を奴に叩き込むだけで勝負は付く。あとはひたすらに自らの無力を刻み込んでやるだけだ。
テミスの戦略は単純なものだった。速さと力……この二つは往々にして別格視されているが、実は比例しているのだ。
人の手によって振り下ろされた割り箸の包み紙で木の箸が折れるように。速さと力……所謂破壊力は比例するのだ。
故にこの超高速の一撃は、ひと振りでドロシーを倒すのに足る破壊力を秘めているのだ。
「っ……!」
微かに。ピタリと構えられていたドロシーの盾が揺れた刹那。テミスは万力の力を込めて地面を蹴り抜いて一直線にドロシーへ肉薄すると、その体を薙ぎ払うように大剣を抜き放つ。
――しかし。
バヂィッ! と何かが弾けるような音が鳴り響き、テミスの剣が固いゼリーに飲み込まれたかのような感触と共に動きを止める。
「アハッ……」
瞬間。嬌声のようなドロシーの笑い声が、テミスの耳に届いたのだった。
2020/11/23 誤字修正しました