1811話 打算無き反骨
名前も知らないこの女騎士を助ける事に利は無い。
頭ではそう理解しながらも、テミスの身体が止まる事は無かった。
意識を失った女騎士が昏倒し、その命の灯が潰える刹那。
閃いたテミスの掌がその痛々しい傷口に触れ、治療を開始する。
「っ……!! テ……ミス……殿……?」
「何も言うなッ……! 何も見るなッ!! 肝に銘じろ。今ここでは、何も起こらなかったッ!!」
「…………」
淡い緑の光が女騎士を包み込む傍らで、ユナリアスは驚愕に目を見開いて息を呑むと、顔をあげてテミスを仰ぎ見る。
だが、固く歯を食いしばったテミスがユナリアスに視線を向ける事は無く、じっとりと噴き出した嫌な汗がテミスの額を伝う。
「正直、褒められた行いではない。見棄てるべきなのだろう。わかっている。ああ、わかっているともッ!!!」
女騎士へと触れた掌へ更なる力を流し込みながら、テミスは胸の内を満たす苛立ちを吐き出すかのように、誰に告げる訳でも無く言葉を荒げた。
その言葉を聞きながらも、ユナリアスは静かに視線を光に包まれた女騎士へと向け、未だ絶望の覚めやらない心で見守り続ける。
「ここで命を一つ救った所で、何一つ得は無い。情報の漏洩まで考えれば、愚策も良い所だ!!」
「……っ!!」
続けられた言葉を聞いて初めて、ユナリアスは自身が求めていたものの価値を理解すると共に、ゆっくりと小さくなっていく傷に鋭く息を呑んだ。
ひとりでに傷が塞がり、消えていくその光景は、ユナリアスの目から見ても異質なものだった。
こうしている間にも、まるで蝋人形にでもなってしまったかのように青白かった顔色が僅かに戻り、頬も薄っすらと赤みを帯び始めている。
明らかに理を超えたその力を前にして尚、それでもユナリアスの胸中に在ったのは、友の命が救われるかもしれないという眩いばかりの希望だけだった。
「ク……ッ……!!」
だが。
目に見える刀傷があらかたきれいに消えた途端、微かなうめき声と共に治療を施していたテミスの身体が大きく傾ぐ。
しかしそれでも、テミスが治療の手を休める事は無く、既に傷の癒えた肌へと向けられた掌からは、淡い緑の光が注がれ続けている。
「っ……! テミス殿! もう十分だ! 傷は癒えている!! 本当に……本当に感謝するッ……!!」
「馬鹿が。言ったはずだ。傷を治すだけならば簡単な話だと。今ここで治療を辞めればコイツは死ぬぞ……! 良いから黙って見ていろ!」
「まさか……」
傷が癒えてなお、力を注ぎ続けるテミスに、ユナリアスは表情をこわばらせると、再び鋭く息を呑んだ。
テミスの施している治療はただ、受けた外傷を癒しているだけのものでは無かった。
それはかつて、死に瀕したフリーディアを救った術と同質のもので。
テミス自身の生命力を分け与える事により、強制的に死に逝く命を引き戻しているのだ。
無論、身を切るような術が何の代償も無しに行使できるはずも無く。
強烈な眩暈と虚脱感を覚えながらも、テミスは力を注ぎ続ける。
「ユナリアス。一つだけ……約束しろ……! 今すぐ、言葉に出して誓え」
「……何なりと」
「私の施した治療について、生涯秘匿すると。誰にも語ることなく、書き記す事無く、墓の下まで持って逝くと」
「誓います。私、ユナリアス・フォローダはテミス殿に受けた恩を裏切る事は無いと。この秘密を生涯守り抜き、命に代えても秘匿する事を」
「よし……」
まるで高熱にうなされているかの如く、ゆらゆらとまとまりを欠いた思考の中で。
テミスは辛うじて言葉を紡ぐと、ユナリアスに誓いを求めた。
とはいえテミスとて、このような口約束が絶対に守られるとは微塵も思ってなどいない。
それでも、何も無いよりはマシだと。
冷酷に否定する自分自身に言い聞かせながら、静かに治療を完遂した。
「ぅ……ぐぅッ……!!」
直後。
大量の脂汗を流しながらテミスは苦し気に呻くと、ガクリとその場に膝を付く。
何と馬鹿な事をしたのだ……と。
荒い呼吸を繰り返しながら、テミスは胸の内でひとりごちる。
ここは未だ敵地の只中。治療を施したとはいえ、この女騎士が目覚めるにはまだしばらくの時間がかかる。
しかし、無茶な治療を施したせいで、もはやしばらくの間テミスには剣を振るうだけの体力も無い。
ミイラ取りがミイラになる典型的な愚行。
だが……。
「は……は……ざまぁ……みろだ……」
不思議と満たされた気分の中。
テミスは未だ顔すら知らない敵の姿を思い浮かべると、皮肉気に頬を吊り上げてせせら嗤ったのだった。




