1800話 青き憧憬
旗手を連れて駆け出したテミスは、足場の悪い山道をものともすることなく、獣のような速度で駆け抜けていた。
しかし、精鋭の集う白翼騎士団の一員とはいえ、大きな団旗を背負ったうえに、正真正銘ただの人間である旗手がテミスの速度に付いていくことができる筈もなく、腕を引かれ始めて五分と経たずに足を止め、浅く荒い呼吸を繰り返しながらその場に崩れ落ちる。
「ゼッ……ゼェッ……カハッ……ヒュッ……!! ゴホッ……ッ……!!!」
「…………」
一方でテミスは、蹲った旗手の傍らに立ったまま、労いの言葉をかける事すらなく、酷く気だるげな表情で見下ろした。
その表情は語るまでもなく、既に旗手を連れてきた事を後悔している事を物語っており、事実テミスの胸中では、フリーディアの元から逃れることができた今、走ることすらできなくなった旗手をこの場に置いていく案が浮かんでいた。
「も……申し……訳ッ……ガハッ!! ゲホッ……!! ありま……せんッ……!! すぐに……立ちま……ッ!!」
「フム……」
だが、そんなテミスの胸中を察したのか、旗手は未だ整わない荒い呼吸を繰り返しながらも、ガクガクと生まれたての小鹿のように脚を震わせ、すぐに立ち上がらんと藻掻き始める。
けれど当然、そのような状態では立ち上がることなど叶うはずも無く、ビクビクと不気味に腰を跳ねさせただけに留まった。
「厳しい事を言うようだが、これではフリーディア達から先行した意味が無い。それはわかるな?」
「ッ……!!! は……いッ……!!」
「加えて少し早駆けをした程度で潰れるようでは、戦場で戦う事など望むべくもない。ただでさえ旗手であるお前は目立つせいで狙われやすいのだ。無理に私と共に来るよりも、残った方が安全だと思うが?」
とはいえ、ここまで手を引いてきたとはいえ、ついて来ることの出来た旗手の根性にも目を見張るものがあり、何も告げる事無く放り出していくことに一抹の気まずさを感じたテミスは、静かな声で旗手へ語り掛ける。
所詮は奮い立たせただけの勇気。
己の力量不足と、遠回しとはいえ三下り半を突き付ければ折れるはず。
そう思っていたのだが……。
「ッッ……!!! ガッ……ッ……!! ッ……!!! も……もうッ……!! 大……丈夫……ですッ……!!! ご迷惑を……おかけしましたッ……!!!」
「っ……!!」
テミスの問いかけを聞いた途端、旗手は傍らのテミスの元まで歯の軋む音が聞こえて来るかと思うほどに固く歯を食いしばり、充血した目を剥いてまで無理やり立ち上がった。
だが、いくら口では勇ましい事を言ってみせたとしても、気合と根性だけで辛うじて立ち上がっただけなのは一目瞭然で。
旗手の見せた予想外の気迫に驚きながらも、テミスは浅いため息を一つ吐いてから、ガクガクと震え続ける旗手の足を軽く小突いてやる。
「ぅわッ……!!?」
「ハァ……やれやれ、全く……。仕方のない奴だ」
「ひぃぇッ……!? テ……テミス……様ッ……!?」
「暴れるな。放り出されたくなければ大人しくして居ろ」
「は……はぃぃっ……!!」
すると、当然の如く旗手は体勢を崩して再び地面に崩れ落ちかけるが、それよりも早く懐に潜り込んだテミスは、旗手を肩の上に担ぎ上げて再び駆け始めた。
その予想だにしていなかったであろうテミスの選択に、旗手は担がれながらも焦りを露にするが、釘を刺すような鋭いテミスの言葉に、すぐにピタリと動きを止めて指示に従った。
「悪くない根性だ。せいぜい後悔しろ。だが……気に入ったぞハタモチ君」
「えっ……!? あ……は……はい……ありがとうございます」
「しかし……何故そうも死地へ赴きたがる? それも、お前達が敬愛してやまないフリーディアの意を振り切ってまでだ」
「えっと……それは……その……ですね……」
「…………。ム……?」
一気に本来の速度へ加速し、険しい山道を矢のような速度で駆け抜けながら、テミスは湧き出る好奇心に従って担ぎ上げた旗手に問いかけた。
しかし、返ってきたのは酷く歯切れの悪い、何処か艶がかった口ごもりで。
不思議に思ったテミスは、自身の肩の上で身じろぎをする旗手の火照る体温を感じながら担ぎ直すが、途端に感じた奇妙な感触に首を傾げた。
激しい運動の直後とはいえ妙に高い体温と、決して体格が良いという訳ではないテミスですら、容易に担ぎ上げる事ができるほどに小柄な体躯。
そして、旗手であるが故に、他の騎士の甲冑とは異なる装甲が故に、そこから感じる確かな柔らかさ。
僅かな空白の後、テミスの脳裏に導き出されたのは一つの答えで。
「っ……!! お前ッ……!! まさか……とは思うが……」
「えっと……たぶん、はい……です……。このような格好で申し上げるのも恐縮なのですが……戦場でも凛と気高くて美しいテミス様に憧れまして。俺……私も、少しでも貴女に近付く事が出来たら……と思い、志願いたしました」
「ッ~~~~~!!! …………。あ~……まずはその、すまない。勘違いしていたことを謝罪しよう」
「い、いえ!! そんな!! とんでもないです!! 俺の方こそ、テミス様の足を引っ張ってしまい、大変申し訳なく……」
砦へと近付くにつれ、徐々に戦闘音と思しき金属音や猛り吠える声が微かに聞こえはじめる中。
駆ける速度こそ緩めはしないものの、担ぎ上げた旗手とテミスの間に何とも言い難い奇妙な雰囲気が流れた。
「……まぁ良い。そういう事なら気にするな。悪い気はしないからな。特等席をくれてやるから存分に見ていけ。あぁそうだ、名は何と言うんだ?」
「ッ……! ありがとうございます! リコリシアと申します! どうか、リコとお呼び下さい!!」
「わかった。リコ。間もなく戦場だ。気を引き締めろよ」
「はいッ……!!!」
だが、テミスは僅かに口角を緩めて微笑みを浮かべると、柔らかな声色で肩の上の少女旗手へと問いかける。
そんなテミスにリコと名乗った少女旗手は、静やかに添えられた忠告に、気合の籠った声で返答を返したのだった。




