1793話 船乗りの誇り
……何をやっているんだ。私は。
船首へと辿り着いたテミスは、舳先が切り裂く水の飛沫を僅かに浴びながら深々と溜息を吐いた。
この場は既に戦場。そう理解していた筈だ。
だが、攻防に優れたコルカたちの魔法砲撃に加えて、サキュドたち飛行可能な魔族たちによる強襲戦術という、敵に対する絶対的優位を誇る戦法を持ち得ているという認識が、知らずの内に意識を緩ませていたのだろう。
「……慢心は毒。あぁ。大丈夫だ。きちんと理解している」
抜き放ったまま握り締めた大剣へ語り掛けるように、テミスは独り嘯きながら、ようやく静まり始めた己が心へと語りかけた。
この事態は、よくよく考えてみればらしくもない、余分な気遣いに端を発していることは明らかだ。
船頭多くして船、山に登るとはよく言ったもので。今のフリーディアのように次席指揮官ならば兎も角、瞬時の判断が生死を分ける戦場で、運命を同じくする一つの船の上に、二つの指揮系統が存在するべきではない。
友好的な出会いがあったから。足を借りに来た立場で烏滸がましい。ここはそのような平時における常識など、捨て去るべき死地なのだ。
「戦いはまだ始まったばかり。このような所で浮足立っている暇はない」
一言、また一言と己に刻み込むかのように、テミスは後方へと流れていく敵の船団を見据えて、頭の中で瓦解した戦術を修復していく。
こちらから奇襲を仕掛けたとはいえ、事ここに至ってもまだ、一機たりとも艦載機に当たる存在が出て来ない所を見ると、あちら側は未だ航空戦力を有してはいないのだろう。
本音を漏らすのならば、サキュドたち航空戦力の存在はまだ、こちらの切り札として伏せておきたかった。
大船団を以て侵略してくる敵に対してこちらは単艦。ならば、一点突破を以て敵の懐の内……即ちパラディウム砦を有する島に潜り込んだ後……。その瞬間こそが、この戦場に存在するはずの無い航空戦力という、サキュド達の強みを最も生かすことの出来る好機だったのだ。
「……ともあれ。こうなった以上はまず、障害の処理だ。二度と同じへまはしない。こちらの足場を固めてから、万全をもって敵を叩く」
クールダウンを終えたテミスが静かに目を開くと、そこに宿っていたのは見る者全てを凍て付かせるかの如き冷酷な光で。
ゆらりと揺らめくように身を翻したテミスの手には、いまだ抜き身のまま握られていた漆黒の大剣が、ビリビリとした気迫を周囲へと振りまいていた。
「まずは船の指揮権の掌握だ。殺さぬように加減しなければな……」
禍々しい大蛇が鎌首をもたげるかの如く。
テミスはゆっくりとした動きで携えていた大剣を肩に担ぎ上げると、早速作戦を行動に移すべく一歩を踏み出した。
船長であるロロニアを叩きのめし、その命を人質として他の湖族を従わせる。
そうすれば少なくとも、この作戦の間の足は担保できるし、仮に湖族の内に敵に通ずる者が紛れていたとしても、その企みごと封殺する事ができる筈だ。
感情が強烈な忌避感を叫ぶものの、一度ミスを犯したという事実により強さを増した理性が、テミスの心を押し切らんとした時だった。
「おいッ……!! テミス……!!」
「…………」
「何つーか……その……。悪かったッ!!!」
「っ……!?」
息を切らしながらロロニアが姿を現すと、威勢よくテミスの名を呼んだ後、酷くばつが悪そうに口ごもりながら頭を下げる。
その姿は、先ほどまで激昂していたロロニアとは思えないほど殊勝なもので。
一度は好機と冷笑を浮かべかけたテミスも、驚きのあまりピタリとその場で足を止めた。
「頭冷やして考えた。この戦いは俺達の戦いじゃねぇ。アンタの戦いだ。正直、船での戦いに関しちゃ、俺の方が上だと思っている。だけどアンタはどうやら、俺達の知っている普通も、常識ってやつも軽々と越えて行っちまうらしい」
「……話が見えんな。つまるところ、何が言いたい?」
「だぁ~~~~ッ!!! お手上げだ! アンタに協力する間、俺達はアンタの指揮下に入る!! そもそも、船ごと叩き切っちまう斬撃や空飛ぶ奴等なんて扱い切れるか!!」
「ホゥ……? 意外だな。てっきり、また突っかかって来るのかと思ったが」
身構えたままのテミスを前に、ロロニアはガリガリと頭を掻きむしると、両手を挙げて投げやりに叫ぶ。
その提案は、たった今この船の指揮権を収奪しようと画策していたテミスにとって朗報ではあったものの、あまりにも話が出来過ぎているが故に、罠を疑っていた。
だが。
「船乗りに二言はねぇ! 手ぇ貸すって言ったら最後まで手は貸す!! その上で、この船の船長として、この船の皆が一番生き残る目が高いと判断しただけだ!!」
「ッ……! フッ……すまない。どうやら私もお前という男を見誤っていたらしい。お前の器……信頼はしないが信用してやる」
胸を張って叫んだロロニアの、煌々と輝く誇り高き瞳を見たテミスは、胸中に揺蕩っていた疑心を隅へと追いやって微笑みを浮かべると、担いでいた大剣を背中の鞘へと納めたのだった。




