166話 信念と打算
最良の一手だ。
ため息を吐き終わるまでの刹那の間に、テミスは心の中でそう呟いた。
フリーディアらしいと言えばらしい行動ではあるし、どうせその様な事を狙って言っているのではないだろうが……。
「やれやれ……」
テミスは半眼で脱力すると、真っすぐと自らを見据えてくるフリーディアの瞳を見据える。その宝石のように輝く瞳には一切の淀みが無く、ひたむきな想いが溢れていた。
――綺麗な目だ。純粋な眼差しというのは、こういうものの事を云うのだろう。とテミスは自嘲気味に頬を吊り上げた。あの瞳は、陰謀策略などまるで無く、他人の為に全力を尽くし、心からその幸せを喜べる者の目だ。
「……私とは、大違いだな」
テミスは半開きで保っていた目を微かに伏せると、その唇が音も無く動く。
私は今も、損得勘定に基づいて思考している。いったいいつから、私の目はここまで濁り果てたのだろうか……。
仮に、フリーディアの思い描く未来になったとして、一番『得』をするのは白翼騎士団だ。戦いはこれで終わり、白翼騎士団は今まで通り我々の敵に戻る。その中に特記戦力として、魔王軍軍団長である私を憎むライゼルが加わるのだ。敵戦力が増加するのは間違いないだろう。それに、我々と敵対する白翼騎士団であれば、ライゼルにとっても復讐の機会は増えるというものだ。
――だが……。
テミスは伏せていた目を上げると、フリーディアの傍らで微笑を浮かべるライゼルに視線を移した。
確かにこの男はファントを攻め、町の人々の平和を脅かした。
だが、それを策略したのはドロシーでありライゼルではないし、事実上こちら側に出た損害と言えば、兵がいくらか負傷したくらいだ。
くそっ……。
テミスは心の中でそう毒づくと、顔をしかめて歯を噛み締める。
答えなど、既に出ている。あとはそれを口に出すだけ……。しかし、小賢しい自分の声が、それは駄目だと押し留めていた。
……ここでライゼルを始末してしまえば、私も奴等と同じになってしまう。
テミスは肌が青白くなるほどに拳を固く握りしめると、きつく目を閉じて大きく息を吸い込んだ。
ライゼルは、カズトのように力に溺れた訳でもなく、非戦闘員を巻き込んだり嬲り殺しにした訳でもない。少なくとも……私の目にはそう映っている。
ならば、ここでライゼルを殺すという事は、あの世界で我が身可愛さに『俺』を切り捨てた連中と同じ行為だ。
自分の安寧を脅かされることを恐れ、罪の無い者を断罪する……。そんな事をしては、私がこの世界に来た意味が霧散してしまうッ!!
カッ!! と。テミスは憑き物でも落とすかのように一気に目を開くと、再びフリーディアの目を見据えて口を開いた。
「良いだろう。ただし、憎しみに呑まれたライゼルが私の前に現れたら……容赦はせんぞ?」
「わかっているわ。白翼騎士団に名を連ねる以上……ライゼルにも私達の正義を掲げて貰います……まずは、軍部の許可なしに勝手にファントへ攻め入った事の罰かしら?」
「厳しい奴をくれてやってくれ」
フリーディアが真面目な表情で告げた後、若干その頬を緩めて問いかけると、苦笑いを浮かべたテミスがそれに応じた。
「やれやれ……何と言いますか……。お二人とも、僕の意志は無視なのですね」
「当り前だ」
「当り前よ」
「その命が繋がっているだけ、儲け物だと思え」
やれやれと首を振ったライゼルに、テミスとフリーディアの声が重なる。そして、テミスが一言付け加えると、ライゼルは降参したかのように両手を挙げた。
「わかっていますよ……。末席とはいえ、かの白翼騎士団に加われるのです。まさか、嫌などと言う訳がありません」
「チッ……調子のいい奴め。今度戦場でそのニヤけた面を見かけたら真っ先に刻んでやるとしよう」
「あ、あの……」
舌打ちをしたテミスがフリーディアに背を向けると、ちょうど生き残った兵士たちと目が合った。その顔には、無事生き残る事のできた安堵と、主との別離を悲しむ悲哀が入り混じっていた。
「おい。フリーディア。どうせならこいつ等も連れていけ。ライゼルと同罪だ」
テミスは肩越しにフリーディアを振り返ると、ぶっきらぼうに言い放つ。
面倒極まりない上に敵に塩を送るなど言語道断ではあるが、一度乗り掛かった舟だ……選択をしたのならば、最後まで貫き通すべきだろう。
「わかったわ。他でもない貴女がそう言うのならば呑みましょう」
「っ――!!」
テミスの後ろで、フリーディアが優し気な笑みと共に頷くと、兵士たちの顔が一気に明るくなる。やはり、人間というものは過去に捕われず、未来を見据えて歩むべきなのだ。そう、テミスが頷いた時だった。
「――承服しかねるな」
不意に。テミスの前にリョースが立ちはだかり、厳しい顔でその歩みを止めた。
「おや、リョース殿。いつの間にこちらへ? それに、承服できないとはどういう意味でしょうか?」
「貴様が唸っている間にな……己が信念を貫くのは構わんが、敵に与するとはどういう了見だ?」
「どうも何も……聞いておられたのであればそのままですが?」
リョースを見上げたテミスがそう応じた瞬間。弛緩しかけていた空気が一気に張り詰めた。その周囲の者達すらも怖気を覚えるほどにテミスとリョースが睨み合う。
今度はこっちか……。
リョースと対峙しながら、テミスは内心で呆れかえった。
あちらを立てればこちらが立たず。これではまるで、この人魔の戦争のようではないか。
「自領に攻め入ってきた敵軍の指揮官を逃がすなど言語道断。そう言っているのだが?」
「フム……」
リョースがそう告げて睨み付けるが、テミスはただニヤリとした笑みを浮かべて息を吐いただけだった。
確かに、魔王軍としてはそう言わざるを得ないだろう。
魔王軍としては、敗走したドロシーは攻め入られているファントを救う為に駆けつけた援軍だ。ならばこの戦いの責任を、首謀者の地位と共にライゼルへと押し付けるしかないのだ。
だが、そんな事は先刻承知済みだ。
「実は、私とそこのフリーディアはこの戦場でドロシー殿と相まみえてましてね」
「……何?」
テミスはニィィッ……。と頬を吊り上げると、ギラギラとした目でリョースを睨み返す。
「その際、ドロシー殿は討ち取れるはずであったライゼルを救うばかりか、明確な敵意を私に向けてきました。ええ……リョース殿。貴方がファントに到着する直前の事ですよ」
「っ……出、まかせを……っ……」
下から睨み上げるテミスに、リョースが僅かにたじろいだ。
この事実こそが、テミスが持っていた切り札だった。
ギルティア達とて、ドロシーがファントを攻めていた事など承知のはず。その上で、苦肉の策として存在しないはずのはぐれ魔族の軍団を作り上げ、軍団長であるドロシーを庇ったのだ。
だが、テミス自身が居ないはずのドロシーと切り結んだとなれば……。その上、この場でそれを明かした事が、テミスの意志を明確に物語っていた。
「……ならば。ギルティア様の前でそれを証明してみせろ」
「ええ、望む所ですとも」
低く唸ったリョースが辛うじてそう告げると、酷く歪んだ笑みを浮かべたテミスは歌うように答えたのだった。
2020/11/23 誤字修正しました