1750話 燐光に包まれて
亮は刃を腹に突き立てただけでは飽き足らず、そのまま真一文字に軍刀を動かして己が腹を裂いた。
当然。傷口からは夥しい量の血が溢れ、流れ出た血が石畳に広がっていく。
「っ……!??」
切腹。
腹を切って自ら死を選び、誇りを尊ぶ終わり方の一つ。
だがその価値観はあくまでも、腹を斬る事の意味を知る者のみが理解できることで。
フリーディアを含むこの場に居るほとんどの者は、亮の意図を理解する事ができず、その異様な光景にただ困惑する事しかできなかった。
「ッ……!! ゴボッ……!!」
誰もが動きを止めて凍り付く中。
テミスだけは傷付き果てた己が体に鞭を打って再び立ち上がらんと藻掻き、握り締めた大剣がガリガリと石畳を掻いた。
しかし、既にテミスは満足に呼吸をする事すらままならず、全霊を尽くそうとも身体を引き摺って僅かに前へと進む事しかできず、動くたびに鼻と口からボタボタと血が滴る。
「謝りはせん。だが……天晴れだった。さらばだ、テミス」
「ッ~~~~!!!!」
己の腹を裂いた亮は、まるで憑き物が落ちたかのように穏やかな笑みを浮かべてテミスへ顔を向けると、静かな声色でそう告げた。
それは紛れもない勝利宣言であり、全身に力を込めたテミスが声にならない絶叫を上げると同時に、亮から溢れ出た血が青白い輝きを放ち始める。
「なッ……!?」
それは紛れもなく、魔法が発動するときに発せられる光と同一のもので。
天へと昇りながら周囲へと広がっていく光を見た瞬間、呆気に取られていたフリーディアも漸く事態を察し、脚に全霊の力を込めて再び立ち上がった。
だが。その時には既に亮の血から零れた光は淡い燐光と化して周囲を包み込んでおり、手遅れの様相を見せていた。
「ク……ソッ……!!!」
完敗だ。
立ち込める霧が加速度的に濃くなっていくかの如く、みるみるうちに周囲を包み込んでいく燐光を見つめながら、テミスは悔しさに固く食いしばった歯の隙間から言葉を零した。
馬鹿なのかッ!? 私は……!! 最後の最後で詰めを誤ったッ!! 理解していた筈だ。亮の執念を。故郷へ帰る事への妄執を。
ならば、別れの言葉をかけている暇などあるはずが無い!!
だというのにッ……!!
「それでも……」
一言。告げずには居られなかったのだ。
この世界で共に肩を並べられなかった事の無念と、先達への経緯……そしてなにより、亮の愛惜の思いを胸に刻む為に。
「…………」
「クッ……!! 何も見えないッ!! これはッ……!!」
ドサリ。と。
自責の念と共に、テミスは何処かこの光の濃霧の中で未だ諦めずに剣を振り回しているらしいフリーディアの叫びを聞きながら、もたげていた頭を力無く石畳に落してその場に倒れ伏した。
亮は既に魔法の発動を終えてしまった。この光に包まれた時点で、既に私たちの敗北は決している。
後はもう、このファントの地ごと消え去るのか、この光に包まれた生けとし生ける者の命が吸い尽くされるのか……。いずれにせよ、ファントという町そのものが生贄と捧げられてしまった事実に変わりはない。
「ウッ……ゥゥッ……!!」
情けない。
改めて現実を理解したテミスは、己の不甲斐なさを噛み締めると、自然と溢れてきた涙を堪え切れずに嗚咽を漏らした。
絶対に守ると息まいた癖にこの体たらく。
死んでも死にきれないというのはまさに、こんな悔しさの事を言うのだろう。
涙に歪んだ視界の中。テミスの心が更なる自責の念へと沈みかけた時だった。
「えっ……? これ……は……? 村……? なの……?」
驚愕に息を呑むフリーディアの声がテミスの耳を打ち、絶望と後悔に打ちひしがれていた心が僅かに跳ねる。
あり得ない話ではない。魔法の贄となったのならば、その結末を見せ付けられたとしても。
だがそれは、あまりに残酷ではないだろうか。
自らの敗北と失敗を突き付けられ、手にする事ができなかった未来をただ見せられるなど……。
最早起き上がる気力すら失せ、テミスは眼前の現実から逃れるように、泣き腫らした目をゆっくりと閉ざす。
しかし……。
「あ……!! 居たッ!! ちょっとテミス!! 泣いていないで起きなさい!!」
力強いフリーディアの言葉と共に、半ば強引に身体を引き上げられると、閉ざしかけていたテミスの視界に異様な光景が飛び込んできた。
そこに在ったのは、ファントの街並みと重なるように光で形作られた、古い日本家屋が立ち並ぶ村の景色で。
けれど、村を模る光は定かではなく、テミス達が動くたびに頼りなくゆらゆらと揺れ動いた。
「これ……何の魔法かしら? 試しに斬ってみても斬れないし、幻影の類? でも……」
「…………」
テミスを引き起こしたフリーディアはその身体を支えながら周囲を見渡し、近くで腹を切った姿勢のまま動かない亮へと視線を留める。
周囲の者達も突如として出現した不定形の村には動揺を隠す事ができず、触れることの出来ない村へと手を伸ばしては首を傾げてみたりと、動揺が広がりつつあった。
そんなテミス達の傍ら、フリーディアの視線の先では、切腹したまま座り込んだ亮が燐光で包まれている。
だが、微動だにしないその姿は明らかに事切れており、より一層この光景の異様さを増していたのだった。




